皇極天皇(十三)茨田池の変色・吉備嶋皇祖命を檀弓岡に葬る

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皇極天皇(十三)茨田池の変色・吉備嶋皇祖命を檀弓岡に葬る

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原文

八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。
九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云、呼廣額天皇、爲高市天皇也。丁亥、吉備嶋皇祖母命薨。癸巳、詔土師娑婆連猪手、視皇祖母命喪。天皇、自皇祖母命臥病、及至發喪、不避床側、視養無倦。乙未、葬皇祖母命于檀弓岡。是日、大雨而雹。丙午、罷造皇祖母命墓役。仍賜臣連伴造帛布、各有差。是月、茨田池水漸々變成白色。亦無臭氣。

現代語訳

(即位2年)8月15日。茨田池(マムタノイケ)の水は変わってしまい、藍の汁のようになりました。死んだ虫が水を覆いました。溝瀆(ウナテ=溝・水路)の水流は、凝固してしまいました。厚さは3、4寸ほど。大小の魚が腐って、夏に腐って死んでしまった時のようでした。これで食用になりませんでした。
9月6日。息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト=舒明天皇)を忍坂陵(オシサカノミサザキ)に葬りました。
ある本によると、広額天皇を高市天皇(タケチノスメラミコト)と呼んだと言います。

9月11日。吉備嶋皇祖命(キビノシマノスメミオヤノミコト=皇極天皇の母)が亡くなりました。
9月17日。土師娑婆連猪手(ハジノサバノムラジイテ)に詔(ミコトノリ)して、皇祖母命(スメミオヤノミコト)の喪を見させました。天皇は皇祖母命が病に伏せてから、喪を起こすまで、病床の側を去らず、看病してよく面倒を見て、怠ることはありませんでした。
9月19日。皇祖母命を檀弓岡(マユミノオカ=現在の奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬りました。この日に大雨(ヒサメ)が降って、雹(アラレ)が降りました。
9月30日。皇祖母命の墓を作る役(エダチ=労役)をやめさせました。臣(オミ)・連(ムラジ)・伴造(トモノミヤツコ)に帛布(キヌ=布)を与え、それぞれに品がありました。
この月に茨田池(マムタノイケ)の水は徐々に変わって、白い色になりました。臭い気はありませんでした。
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解説

茨田の池の変色
いろいろと変わりますね。
吉備嶋皇祖命
皇極天皇の母親で、吉備姫王(キビツヒメノオオキミ)と書かれています。茅渟王(チヌノオオキミ=敏達天皇の孫)の妻。血統では皇室の血を引いているわけで申し分ない。しかし、ここで今更、皇極天皇の母だからという理由だけで今更、特別に記述があるのか。

皇極天皇は史上2番目の女性天皇。では1番目の女性天皇である推古天皇はどうかというと、同じようなことをやっていました。

推古天皇は推古天皇の母親である堅塩媛を欽明天皇陵(堅塩媛は欽明天皇の妃)に葬っています。これには「蘇我氏の娘」である「堅塩媛」を特別扱いすることで、蘇我の権力を誇示するとか、推古天皇の権力基盤をシッカリとさせる意味があったと思われます。

しかし、吉備嶋皇祖命はそもそも「皇室の血を引いている」わけで、今更、特別視をするのは妙ではないかと。

もしかすると妃を合葬することは珍しいことではなく、単に記述が始まったのが「推古天皇の時代」だっただけってことなのかもしれない。
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