皇極天皇(十二)高麗は己亥年から朝貢がない・前例と違う品物

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皇極天皇(十二)高麗は己亥年から朝貢がない・前例と違う品物

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原文

五月庚戌朔乙丑、月有蝕之。六月己卯朔辛卯、筑紫大宰、馳譯奏曰、高麗遣使來朝。群卿聞而、相謂之曰、高麗、自己亥年不朝、而今年朝也。辛丑、百濟進調船、泊于難波津。秋七月己酉朔辛亥、遣數大夫於難波郡、檢百濟国調與獻物。於是、大夫問調使曰、所進国調、欠少前例。送大臣物、不改去年所還之色。送群卿物、亦全不將來。皆違前例、其狀何也。大使達率自斯・副使恩率軍善、倶答諮曰、卽今可備。自斯、質達率武子之子也。是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。

現代語訳

(即位2年)5月16日。月蝕がありました。
6月13日。筑紫大宰(ツクシノミコトモチノツカサ)は馳駅(ハイマ=早馬)をして、申し上げて言いました。
「高麗が使者を派遣して、朝廷に来ました」
群卿(マヘツキミタチ=臣下たち)は話し合って言いました。
「高麗は己亥年(舒明天皇11年?)から朝貢していません。なのに今年に朝貢するとは」
6月23日。百済の調(ミツキ=税)を献上する船が難波の津に停泊しました。
秋7月3日。数大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)を難波郡(ナニワノコオリ)に派遣して、百済国の調(ミツキ)と献上したものを検査しました。大夫(マヘツキミタチ)は調の使者に問うて言いました。
「献上した国の調(ミツキモノ)は前の例より欠けていて少なく足りていない。大臣(=蘇我蝦夷)に送ったものは去年、返した品物の品目を改めておらず、変わっていない。群卿(マエツキミタチ)に送った品物は、全く来ておらず、何もかも前例と違う。この状況はどういうことなのか」
大使の達率自斯(ダチソチジシ)・副使の恩率軍善(オンソチグンゼン)はともに答えて申し上げました。
「速やかに準備いたします」
自斯(ジシ)は人質の達率武子(ダチソチムシ)の子です。
この月(7月)に茨田池(マムタノイケ)の水が大変、臭くなって、小さい虫が水を覆いました。その虫は口は黒く、身は白かったです。
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解説

高麗の朝貢について
高麗は己亥年から朝貢していないとあります。
ところが、高麗は皇極天皇の時代にもやってきて「金銀を献上」しているとあります。

ただ、この皇極天皇の時代の記述を見ると「朝貢」とは書いてありません。ではそれ以前に高麗が朝貢した最後の記述となると

の舒明天皇即位2年3月の記述です。舒明天皇即位2年は「庚寅」です。よって己亥年を書き損じたとは考えにくい。でも舒明天皇即位1年は「己丑」なら間違えても…

いやいや、実際に日本書紀には記述がないが舒明天皇即位11年に高麗からの朝貢があったのかもしれない。このあたりはなんとも言えない。よく「間違いがあるから、日本書紀は嘘」というのですが、この程度の間違いはむしろ、修正してしまうのが「普通」です。それでも書き残したということは、実際に「高麗は己亥年から朝貢していない」という当時の認識があったからと考えるべきなんです。
百済の使者について
恩率軍善(オンソチグンゼン)については以下のページに登場します。

しかし達率自斯(ダチソチジシ)とその親であり人質である達率武子(ダチソチムシ)はこのページ以外に登場しません。

「質」である人物がこれ以前に登場しないのは、「質」と呼ばれるものが、大量にいたからでしょう。珍しくもなく、いちいち記述もしない。そのくらい当たり前だった。記述をしているのは、「王子」や有力者の子くらいだったのでしょう。
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