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皇極天皇(十六)山背大兄王の自殺・余豊の養蜂
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有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣国押曰、速可向山求捉彼王。国押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。林臣、入鹿也。以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。是歲、百濟太子餘豊、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息。
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現代語訳
人がいて、遥かに上宮(カミツミヤ)の王(ミコ)たちを山中に見ていました。それを見て、帰って蘇我臣入鹿(ソガノオミイルカ)に言いました。入鹿はそれを聞いて、大いに恐れました。速やかに軍旅(イクサ=軍隊・旅団)を起こして、王(ミコ)のいるところを、高向臣国押(タカムクノオミクニオシ)に語って言いました。
「速やかに山に向かい、かの王を探し求め、捕らえるのだ」
国押(クニオシ)は答えて言いました。
「私めは、天皇の宮を守っているので、どうして外に出られるでしょうか」
入鹿はすぐに自ら行こうとしました。その時、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ=舒明天皇の第一皇子)は息急き切って来て、問いました。
「どこに向かうのか?!」
入鹿は詳細にその理由を説明しました。古人皇子は言いました。
「ネズミは穴に潜伏して生き、穴を失って死ぬ」
入鹿はそれで、行くのを止めました。軍将(イクサノキミ=将軍)たちを派遣して、胆駒(イコマ)で探し求めさせました。ついには見つけることができませんでした。それで山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)たちは山から帰って、斑鳩寺に入りました。軍将たちは、すぐに兵で寺を囲みました。山背大兄王は三輪文屋君(ミワノフミヤノキミ)を軍将たちに語らせて言いました。
「私は、兵を起こして入鹿を征伐すれば、勝つことは定められたことだ。しかしたった一人の人間の理由で百姓に損害を残すことを望んではいない。つまり、私のたった一人の身を入鹿に与えよう」
ついに子弟(ウカラ)・妃妾(ミメ)ともろともに自ら首をくくって共に死んでしまいました。その時に5つの色の幡蓋(ハタキヌガサ)が種々の伎楽(オモシロキオト=寺での舞と音楽)と共に、空に照り光って、寺を下に臨み見て、垂れていました。衆人(モロヒト=周囲の人々)はそれを仰いで見て、嘆き、入鹿に指し示しました。その幡蓋(ハタキヌガサ)たちは、変わり、黒い雲になりました。それで入鹿は(5色の幡蓋を)見ることができませんでした。蘇我大臣蝦夷(ソガノオオオミエミシ)は山背大兄王たちの全てが入鹿に滅ぼされたということを聞いて、怒り罵って言いました。
「ああ! 入鹿!! 甚だ極めて愚痴(オロカ)で、全く乱暴な悪行をした! お前の命も、危うくないことがあろうか!」
その時代の人は、前の謡(ワザウタ)の答えを説明して言いました。
「『岩の上に』というのを上宮(カミツミヤ)に喩える。『小猿』というのを林臣(ハヤシノオミ)に喩える。
『米焼く』というのは上宮を焼くことに喩える。『米だにも、食げて通らせ、山羊の老翁』というのは山背王の頭の髪が斑雜毛(フフキ=白髪混じり)で山羊(カマシシ)に似ているのに喩える。またその宮を捨てて深い山に隠れたのも喩えている」
この年、百済の太子の余豊(ヨホウ)が、蜜蜂の房4枚を三輪山に放ち飼いました。しかし、ついには蜜蜂は増えませんでした。
「速やかに山に向かい、かの王を探し求め、捕らえるのだ」
国押(クニオシ)は答えて言いました。
「私めは、天皇の宮を守っているので、どうして外に出られるでしょうか」
入鹿はすぐに自ら行こうとしました。その時、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ=舒明天皇の第一皇子)は息急き切って来て、問いました。
「どこに向かうのか?!」
入鹿は詳細にその理由を説明しました。古人皇子は言いました。
「ネズミは穴に潜伏して生き、穴を失って死ぬ」
入鹿はそれで、行くのを止めました。軍将(イクサノキミ=将軍)たちを派遣して、胆駒(イコマ)で探し求めさせました。ついには見つけることができませんでした。それで山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)たちは山から帰って、斑鳩寺に入りました。軍将たちは、すぐに兵で寺を囲みました。山背大兄王は三輪文屋君(ミワノフミヤノキミ)を軍将たちに語らせて言いました。
「私は、兵を起こして入鹿を征伐すれば、勝つことは定められたことだ。しかしたった一人の人間の理由で百姓に損害を残すことを望んではいない。つまり、私のたった一人の身を入鹿に与えよう」
ついに子弟(ウカラ)・妃妾(ミメ)ともろともに自ら首をくくって共に死んでしまいました。その時に5つの色の幡蓋(ハタキヌガサ)が種々の伎楽(オモシロキオト=寺での舞と音楽)と共に、空に照り光って、寺を下に臨み見て、垂れていました。衆人(モロヒト=周囲の人々)はそれを仰いで見て、嘆き、入鹿に指し示しました。その幡蓋(ハタキヌガサ)たちは、変わり、黒い雲になりました。それで入鹿は(5色の幡蓋を)見ることができませんでした。蘇我大臣蝦夷(ソガノオオオミエミシ)は山背大兄王たちの全てが入鹿に滅ぼされたということを聞いて、怒り罵って言いました。
「ああ! 入鹿!! 甚だ極めて愚痴(オロカ)で、全く乱暴な悪行をした! お前の命も、危うくないことがあろうか!」
その時代の人は、前の謡(ワザウタ)の答えを説明して言いました。
「『岩の上に』というのを上宮(カミツミヤ)に喩える。『小猿』というのを林臣(ハヤシノオミ)に喩える。
林臣は入鹿のことです。
『米焼く』というのは上宮を焼くことに喩える。『米だにも、食げて通らせ、山羊の老翁』というのは山背王の頭の髪が斑雜毛(フフキ=白髪混じり)で山羊(カマシシ)に似ているのに喩える。またその宮を捨てて深い山に隠れたのも喩えている」
この年、百済の太子の余豊(ヨホウ)が、蜜蜂の房4枚を三輪山に放ち飼いました。しかし、ついには蜜蜂は増えませんでした。
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解説
この物語の意味について
入鹿は次の天皇に古人大兄皇子を即位させようと考えていました。そこで有力者である山背大兄王が邪魔で追い詰め、殺してしまった。物語では山背大兄王が身を引いて自殺したことになっていて、その自殺した理由というのが「戦争したら勝てるけどさ、それって百姓に迷惑かかるじゃん」ということ。ちょっと格好良すぎるんですよね。また死んだ後に寺に五色の旗がひらめいて、音楽が鳴ったのだけど、入鹿が見ようとすると黒い雲になって入鹿だけが見れなかった、なんて演出がすごい。
自殺したというのは事実でしょう。でも、それは敵の手に掛かって死ぬのを嫌ったからであって、上記の理由の全部が嘘とは言いませんが、それは演出が大きいでしょう。
日本人は祟りを恐れます。特に未練を残し、恨みを持って死んだ人間の祟りを恐れます。そして実際に蘇我入鹿は、山背大兄王の関係者では無いものの殺されてしまうのです。当時の人たちは、蘇我氏の滅亡を「山背大兄王の祟り」と見たはずです。
だから祟りを沈静化しないといけない。日本人は神や霊の祟りを鎮める冗長手段として「ご機嫌取り」をしてきました。その一つが物語の中で「立派」に書くということです。山背大兄王の旗や自殺の理由といった伝説は、そういう背景があって誇張されたのだと思います。無論、山背大兄王が仏教を信仰していて、執着心を捨てて、犠牲になった可能性が無いとは言えませんよ。
ネズミは穴に生き、穴を失って死ぬ
これは入鹿をネズミに喩えて、「今、穴(自分のテリトリー)から出て、山背大兄王を捕らえに行けば、自分の穴を失って死ぬぞ」と忠告したわけです。
しかし古人大兄皇子は入鹿を後ろ盾にして天皇になろうとした皇子なのに、その後ろ盾である入鹿を「ネズミ」に例えるってのは、どうもね。おそらく、この言葉自体は創作なんでしょうよ。ただ、この時の状況を指し示してはいるはずです。
ということは、入鹿と山背大兄王は巨大権力者と弱小皇子という関係ではなく、入鹿も「穴を留守にすれば、襲われる」くらいのそれなりのリスクを負って戦っていたということになります。
前の謡(ワザウタ)
前の歌というのは
岩の上(ヘ)に 小猿(コサル)米(コメ)焼く 米だにも 食(タ)げて通(トオ)らせ 山羊(カマシシ)の老翁(オジ)
のことです。
入鹿は次の天皇に古人大兄皇子を即位させようと考えていました。そこで有力者である山背大兄王が邪魔で追い詰め、殺してしまった。物語では山背大兄王が身を引いて自殺したことになっていて、その自殺した理由というのが「戦争したら勝てるけどさ、それって百姓に迷惑かかるじゃん」ということ。ちょっと格好良すぎるんですよね。また死んだ後に寺に五色の旗がひらめいて、音楽が鳴ったのだけど、入鹿が見ようとすると黒い雲になって入鹿だけが見れなかった、なんて演出がすごい。
自殺したというのは事実でしょう。でも、それは敵の手に掛かって死ぬのを嫌ったからであって、上記の理由の全部が嘘とは言いませんが、それは演出が大きいでしょう。
日本人は祟りを恐れます。特に未練を残し、恨みを持って死んだ人間の祟りを恐れます。そして実際に蘇我入鹿は、山背大兄王の関係者では無いものの殺されてしまうのです。当時の人たちは、蘇我氏の滅亡を「山背大兄王の祟り」と見たはずです。
だから祟りを沈静化しないといけない。日本人は神や霊の祟りを鎮める冗長手段として「ご機嫌取り」をしてきました。その一つが物語の中で「立派」に書くということです。山背大兄王の旗や自殺の理由といった伝説は、そういう背景があって誇張されたのだと思います。無論、山背大兄王が仏教を信仰していて、執着心を捨てて、犠牲になった可能性が無いとは言えませんよ。
ネズミは穴に生き、穴を失って死ぬ
これは入鹿をネズミに喩えて、「今、穴(自分のテリトリー)から出て、山背大兄王を捕らえに行けば、自分の穴を失って死ぬぞ」と忠告したわけです。
しかし古人大兄皇子は入鹿を後ろ盾にして天皇になろうとした皇子なのに、その後ろ盾である入鹿を「ネズミ」に例えるってのは、どうもね。おそらく、この言葉自体は創作なんでしょうよ。ただ、この時の状況を指し示してはいるはずです。
ということは、入鹿と山背大兄王は巨大権力者と弱小皇子という関係ではなく、入鹿も「穴を留守にすれば、襲われる」くらいのそれなりのリスクを負って戦っていたということになります。
前の謡(ワザウタ)
前の歌というのは
岩の上(ヘ)に 小猿(コサル)米(コメ)焼く 米だにも 食(タ)げて通(トオ)らせ 山羊(カマシシ)の老翁(オジ)
のことです。
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