皇極天皇(十八)中臣鎌子と中大兄皇子の蹴鞠での出会い

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皇極天皇(十八)中臣鎌子と中大兄皇子の蹴鞠での出会い

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原文

中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾●(門の中に視)社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、䟽然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而倶手把黃卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上、往還之間、並肩潛圖。無不相協。於是、中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請、納蘇我倉山田麻呂長女爲妃、而成婚姻之眤。然後陳說、欲與計事。成功之路、莫近於茲。中大兄、聞而大悅。
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現代語訳

中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラジ)は人となりは忠誠心があり、正しくて、間違いを正し、人を救う心があります。蘇我臣入鹿(ソガノオミイルカ)が君臣長幼(キミヤツコラマコノカミオトト=王と臣下・年功序列の上下関係)の順序を失い、社稷(クニ=国)を奪おうと伺う権謀術数を憎んだ。だから王宗(キミタチ=王族たち)の中に入って接して交わって、次々に試して、功名を立てる哲主(サカシキキミ)を探し求めました。それで中大兄(ナカノオオエ)を心に決めたのだけども、近く機会が無く、離れていたので、その内面に抱いた深い思いを見ることは出来ませんでした。たまたま中大兄が法興寺(ホウコウジ=飛鳥寺)の槻(ツキ)の木の下で鞠を打っている侶(トモガラ=仲間)に加わって、皮鞋(ミクツ=皮の靴)が鞠に付随して、脱げて落ちたのを拾って、手に取って持ち、前に進んで跪いて慎んで奉りました。中大兄は向かい、跪いて敬って取りました。これでお互いに仲良くなり、共に思うところを述べました。すでに隠すことはありませんでした。のちには他人が頻繁に接することを疑うことを恐れて、共に手に黄巻(フミマキ=書)を取り、自ら周孔(シュウコウ=儒教のこと)の教えを南淵先生のもとで学びました。路上の行き帰りの通う間に、肩を並べて密かに計画を立てました。協力し合わないということはありませんでした。中臣鎌子連は合議して言いました。
「大きなことを計画するには助けは有る方がいいでしょう。請い願います。蘇我倉山田麻呂(ソガノクラノヤマダノマロ)の長女を召し入れて妃として、婚姻之眤(ムコシュウトノムツビ=縁組)を成しましょう。そうして後に、陳述して説得して、共に事を計画しようと思います。功を成す道は、これより近いものは無いでしょう」
中大兄はそれを聞いて、大いに喜びました。
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解説

蹴鞠で仲良く
蹴鞠で中大兄皇子の靴が脱げて、それを拾った中臣鎌子は跪いて献上しました。これは中臣鎌子が従者である以上は当然の事です。しかし、それに対して中大兄皇子も跪いて靴を受け取りました。これは「儒教」の思想の影響です。

儒教では上下関係を重んじます。上下関係をしっかりと行うことが「平和」「安定」をもたらすと考えているからです。その上下関係の根本にあるのが「徳」です。上に立つものは徳がある。徳があるから上に立っていい。よって上のものは下を従わせる必要があり、下のものを叩きのめしても構いません。

しかしだからと言って偉そうにしているだけでいけません。上に立つ者は「礼」が無くてはいけません。礼を持って下を敬い、礼に対しては礼を持って接しないといけません。

中大兄皇子は儒教を学んでいた。だからほぼ面識のない中臣鎌子が跪いて靴を献上したことに対して、礼を持って礼に答えた。それが中大兄皇子が跪くという「礼」だったわけです。これを見て中臣鎌子は中大兄皇子を頼りにしようと考えた。
まぁ、このお話が史実かどうかは分かりません。後世の脚色という可能性もあります。ただ儒教がこの物語で大きな役割を果たしたのだろうとは思っています。なぜかというと儒教には易姓革命という思想があるからです。
中大兄皇子と易姓革命
儒教は徳のある人物が上に立つという思想で、道徳が社会を安定させると考えています。その道徳には「上下関係」もあり、上のものへ忠誠を誓うことで社会が長く安定するシステムを作っています。しかし、王や権力者に「道徳」がない場合はどうなるでしょうか。社会は不安定になり、破滅してしまいます。そこで儒教では臣下が王を打ち倒す「下剋上」が思想的に許されています。これが易姓革命です。変な話なんですよね。権力者は上下関係を重んじる儒教を「組織の安定」のために取り入れるのですが、この儒教には「組織を壊す」という爆弾が内包されているんです。

つまり儒教を学んでいるということは礼を学んでいるということだけではなく、「下剋上OK」と考えている証拠でもあるんですね。中大兄皇子が跪いて、中臣鎌子は「中大兄皇子ならば、徳のない権力者である蘇我氏を征伐できる。その気概がある」と考えた。本来、軽皇子がこの役割を果たせば良いのですが、おそらく軽皇子には儒教の思想が無かったのでしょう。
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