天智天皇(十四)百済の名は今日、絶えた

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天智天皇(十四)百済の名は今日、絶えた

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原文

九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、国人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去国之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷国民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。

現代語訳

(即位2年)9月7日。百済の州柔城(ツヌサシ)が初めて唐に降伏し従いました。この時、国人は語り合って言いました。
「州柔(ツヌ)が降伏し、従った。どうしたものか?ということもない。百済の名は今日、絶えた。丘墓(オクツキ=丘の墓)へ、どうしてまた行けるだろうか。弖礼城(テレサシ=土地の名前だが未詳)へ行き、日本の将軍たちに会って、事機(コトハカリ)の要(ヌミ=大事な事)と戦略を話し合わなくてはいけない」
ついに元から枕服岐城(シムブクギサシ)に居た妻子たちに教えて、国から去る心を知らせました。
9月11日。牟弖(ムテ)を出発しました。
9月13日。弖礼(テレ)に至りました。
9月24日。日本の船師(フナイクサ)と、佐平(サヘイ)の余自信(ヨジシン)・達率(ダチソチ)の木素貴子(モクソキシ)・谷那晋首(ゴクナシンス)・憶礼福留(オクライフクル)と、一緒に国民たちは弖礼城(テレサシ)に到着しました。
翌日、船が出発して、日本に向かいました。
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解説

朝鮮半島から百済の将軍や国民が亡命。もはや百済を再興する気力も何も無くなった様子。百済の名はここに絶えたというわけです。百済にはどうやら日本の墓があったようですから、文化的にはかなり近いものがあったか、日本の文化風習を受け入れて「日本化」していたんじゃないかと思います。だから日本を頼った。
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