天智天皇(十)新羅の百済4州の侵略・唐の虜囚の続守言・糺解と福信

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天智天皇(十)新羅の百済4州の侵略・唐の虜囚の続守言・糺解と福信

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原文

二年春二月乙酉朔丙戌、百濟、遣達率金受等進調。新羅人、燒燔百濟南畔四州、幷取安德等要地。於是、避城去賊近、故勢不能居。乃還居於州柔、如田來津之所計。
是月、佐平福信、上送唐俘續守言等。
三月、遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅
夏五月癸丑朔、犬上君闕名、馳告兵事於高麗而還、見糺解於石城。糺解、仍語福信之罪。

現代語訳

即位2年春2月2日。百済は達率金受(ダチソチキンジュ)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。新羅人は百済の南のほとりの4州を焼きました。あわせて安徳(4州の一つと思われる地名)などの要地を取りました。避城(ヘサシ)は賊(アタ=敵)から近い。このままの敵の勢いでは避城に居ることはできない。それで州柔(ツヌ)に帰りました。田来津(タクツ)が考えた通りになりました。
この月に佐平の福信は、唐の虜囚の続守言(ショクシュゲン)たちを日本に送りました。

3月。前将軍の上毛野君稚子(ウアミツケノノキミワカコ)・間人連大蓋(ハシヒトノムラジオオフタ)・中将軍の巨勢神前臣訳語(コセノカムサキノオミオサ)・三輪君根麻呂(ミワノキミネマロ)・後将軍の阿倍引田臣比邏夫(アヘノヒケタノオミヒラブ)・大宅臣鎌柄(オオヤケノオミカマツカ)を派遣して27000人を率いて新羅を討たせました。
夏5月1日。犬上君(イヌカミノキミ)…
名は漏れていて分からない。

馬を走らせて、兵事(イクサノコト=戦争の計画)を高麗に告げて帰りました。糺解(クゲ)と石城(シャクサシ=忠清南道扶余の東南の石城里)で出会った。糺解(クゲ)は福信の罪を語った。
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解説

糺解(クゲ)
糺解を「豊璋」と同一人物の異名と考える人が多いですが、なんとも言えません。ただ糺解は百済の王子で、日本に居たことは間違いありません。
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