天智天皇(十一)福信の処刑・腐狗癡奴

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天智天皇(十一)福信の処刑・腐狗癡奴

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原文

六月、前將軍上毛野君稚子等、取新羅沙鼻岐奴江二城。百濟王豊璋、嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛。時、難自決不知所爲、乃問諸臣曰、福信之罪既如此焉、可斬以不。於是、達率德執得曰、此惡逆人不合放捨。福信、卽唾於執得曰、腐狗癡奴。王、勒健兒斬而醢首。

現代語訳

(即位2年)6月。前将軍の上毛野君稚子(カミツケノノキミワカコ)たちは新羅の沙鼻岐奴江(サビキヌエ)の2つの城を撮りました。百済の王の豊璋は福信(フクシン=鬼室福信)が謀反をする心があるのではないかと疑って、手のひらに穴を開けて革で縛りました。その時、自分では(処刑を)決められませんでした。どうしようもありませんでした。そこで諸々の臣下に問うて言いました。
「福信の罪はすでにこのようにある。斬るべきか?否か?」
達率徳執得(ダチソチトクシュウトク)は言いました。
「この悪逆な人物を許し放ち捨てるべきではありません」
福信はすぐに執得(シュウトク)に唾を吐きかけて言いました。
「腐狗痴奴(クチイヌカタクナヤッコ=腐れ外道の恥知らず!)」
王は健児(チカラヒト)に命じて斬って、首を醢(スシ=塩や酢漬けにして首を保存する)にしました。
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解説

鬼室福信の罪?
福信が処刑されました。罪があったから処刑という経緯となっていますが、何の罪だったのかすら書いてありません。おそらく政争の中で殺されたのでしょう。一般的には、百済再興に尽力する福信の人望を妬んで豊璋が殺した、と言われています。

朝鮮は伝統的に儒教の国で、百済や新羅もおそらくは儒教国だったと思われます。儒教では「道徳」が重んじられ、道徳がある人物が「王」になるとされます。だから、徳のない王は、徳のある人物に打ち倒されて、王の座から引きずり降ろされるものです。これが易姓革命です。

だから儒教国では人望のある立派な優秀な人物は王に殺されるのがパターンです。そういう道徳のある人間はいずれ、王を殺し、新しい王となるに決まっているからです。殺される前に殺してしまえ、ってことですね。

豊璋が「優秀な臣下」である福信を殺す、というのは儒教ではそう不思議なことではありません。
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