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天武天皇(四)阿曇連稲敷が郭務悰に天智天皇の崩御を伝える
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元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。
夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢賜郭務悰等。是日賜郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。
夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢賜郭務悰等。是日賜郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。
現代語訳
天武天皇即位元年の春3月18日。内小七位(ウチノスナキナナツノクライ)の阿曇連稲敷(アズミノムラジイナシキ)を筑紫に派遣して、天皇の喪(ミモ)を郭務悰(カクムソウ)たちに告げました。郭務悰たちは全員が喪服を着て、三遍挙哀(ミタビミネタテマツル=泣いて悲しみを表現する儀式)をしました。東に向いて拝みました。
3月21日。郭務悰たちは再拝して、書函(フミバコ)と信物(クニツモノ=特産品のお土産)を献上しました。
夏5月12日。甲冑弓矢(ヨロイカブトユミヤ)を郭務悰たちに与えました。この日に郭務悰に与えたものは、すべて合わせて、絁(フトギヌ)が1673匹・布2852端・綿666斤。
5月28日。高麗は前部(ゼンホウ)の富加抃(フカベン)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。
5月30日。郭務悰たちは帰りました。
3月21日。郭務悰たちは再拝して、書函(フミバコ)と信物(クニツモノ=特産品のお土産)を献上しました。
夏5月12日。甲冑弓矢(ヨロイカブトユミヤ)を郭務悰たちに与えました。この日に郭務悰に与えたものは、すべて合わせて、絁(フトギヌ)が1673匹・布2852端・綿666斤。
5月28日。高麗は前部(ゼンホウ)の富加抃(フカベン)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。
5月30日。郭務悰たちは帰りました。
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解説
天智天皇が死んだのは12月
天智天皇が崩御したのが前年の12月。しかしその死を百済の占領軍が派遣した「郭務悰」に伝えたのは3月。この3ヶ月は大きい。
ところで白村江の戦いの後、百済を占領した中国の唐の軍隊は郭務悰を送りました。その郭務悰を天智天皇は「追い返して」います。この「追い返した」というのが、どの程度のことなのかは、なんとも言えません。追い返しはしているのですが、品物を与えているし、宴会をして、おもてなしもしています。
また郭務悰はその後、2000人を引き連れて、日本に来ているところを見ると、単なる使者ではなく、「兵隊を引き連れていた」と考えた方が自然です。
では郭務悰と2000人の集団が戦争をしようとしていたのかというと、以下のページにあるように「戦争を避ける」ように気を使っていた記述もあります。
一般的には郭務悰は日本に圧力を掛けに来ていた、とされています。日本に「唐と戦争するのか?」と迫った、とするのが定説です。まぁ、分かりやすい話ですよね。これに関して私は少し違う意見なので、いずれまとめたいと思います。
天智天皇が崩御したのが前年の12月。しかしその死を百済の占領軍が派遣した「郭務悰」に伝えたのは3月。この3ヶ月は大きい。
ところで白村江の戦いの後、百済を占領した中国の唐の軍隊は郭務悰を送りました。その郭務悰を天智天皇は「追い返して」います。この「追い返した」というのが、どの程度のことなのかは、なんとも言えません。追い返しはしているのですが、品物を与えているし、宴会をして、おもてなしもしています。
また郭務悰はその後、2000人を引き連れて、日本に来ているところを見ると、単なる使者ではなく、「兵隊を引き連れていた」と考えた方が自然です。
では郭務悰と2000人の集団が戦争をしようとしていたのかというと、以下のページにあるように「戦争を避ける」ように気を使っていた記述もあります。
一般的には郭務悰は日本に圧力を掛けに来ていた、とされています。日本に「唐と戦争するのか?」と迫った、とするのが定説です。まぁ、分かりやすい話ですよね。これに関して私は少し違う意見なので、いずれまとめたいと思います。
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天武天皇(日本書紀28)の表紙へ
- Page1 天武天皇(一)出自と正妃
- Page2 天武天皇(二)蘇賀臣安麻侶の忠告・東宮は出家する
- Page3 天武天皇(三)虎に翼を着けて放った
- Page4 天武天皇(四)阿曇連稲敷が郭務悰に天智天皇の崩御を伝える
- Page5 天武天皇(五)朝廷は美濃と尾張で兵を集める・候を置いて食料を絶つ
- Page6 天武天皇(六)美濃で兵を集める・不破道を塞ぐ
- Page7 天武天皇(七)留守司の高坂王の駅鈴
- Page8 天武天皇(八)東国へ・最初から従っていた臣・合流した臣・隱駅家を焼く
- Page9 天武天皇(九)横河に黒雲・伊賀→莿萩野→積殖→鈴鹿
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