天智天皇(三十六)河内直鯨は唐へ・郭務悰と二千人の使者

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天智天皇(三十六)河内直鯨は唐へ・郭務悰と二千人の使者

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原文

十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江国蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。

現代語訳

(即位8年)12月に大蔵(オオクラ=近江宮内の大蔵)が火災に会いました。

この冬に高安城(タカヤスノキ)を作って、畿内(ウチツクニ)の田税(タチカラ)を収めました。この時代に斑鳩寺(イカルガデラ)が火災に遭いました。

この年、小錦中の河内直鯨(カフチノアタイクジラ)たちを大唐(モロコシ)に使者として派遣しました。また、佐平(サヘイ)の余自信(ヨジシン)・佐平の鬼室集斯(キシツシュウシ)たち男女700人余りを近江国の蒲生郡(カマフノコオリ)に移して居らせました。また大唐(モロコシ)は郭務悰(カクムソウ)など2000人余りを派遣しました。
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解説

高安城
天智天皇即位8年8月に高安の城を築こうとしたけども民が疲れているから、可哀想と思って、使役をやめたという記事があったんですが、結局作ったんですね。その高安城に、税で集めた「米」を収めて、貯蔵したというのがこの記事です。城に米を貯蔵する、これは籠城して防戦するという意味と考えていいでしょうね。

郭務悰
郭務悰が2000人を引き連れてやってきた、というのはかなり大きな事件のはずです。単純な「使節」ではない。しかし、戦争をするには数が小さすぎます。何せ白村江の戦いでは「十何万」単位の人数での戦争でしたから。2000人じゃ全然足りない。これで日本を黙らせるのはいくら何でも無理って話です。

つまり、唐の思惑は、この「使節」と「戦争」の間ってことだと思います。唐はこの時代、則天武后が支配する微妙な時期で、高宗は外交に興味を失っていました。朝鮮の新羅が「助けて!」と言った以上は儒教の世界観では助けにかなくちゃいけない。じゃないと唐の皇帝として立場がない。それに東北異民族(高句麗も東北異民族)を黙らせることは唐の安定と発展には欠かせない。だから助けたけども、高句麗が滅亡した今、朝鮮や日本に関わるのは単に、財政を圧迫するだけのこと。

朝鮮は寒いし遠い。兵を送るだけでも大変なお金もあるし、兵はそもそも農民であり、彼らを徴収するということは、国が疲弊することに他ならない。仮に日本に派兵して勝利しても、得るものは薄い。勝利の先が無いんです。
「もう、戦争は避けたい」
というのが唐の正直な感想だったのでしょう。しかし、面子もある。儒教では面子ってのはめちゃくちゃ大事なものです。
その結果が「2000人」の派遣ではないかと。

2000人の派遣は異常です。だから日本に「やるならやるぞ」というメッセージを送ることもできる。でも、何万人じゃない。「丁度いい落とし所を探りましょうよ」という意味も当然ある。
その結果、日本と唐は戦争を避けることが出来た。
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