天智天皇(三十九)賀正の事・大友皇子を太政大臣に

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天智天皇(三十九)賀正の事・大友皇子を太政大臣に

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原文

十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。(御史蓋今之大納言乎。)甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。(法度冠位之名、具載於新律令也。)

丁未、高麗、遣上部大相可婁等進調。辛亥、百濟鎭將劉仁願、遣李守眞等上表。

現代語訳

即位10年春1月2日。大錦上の蘇我赤兄臣(ソガノアカエノオミ)と大錦下の巨勢人臣(コセノヒトノオミ)とが、殿(ミアラカ)の前に進み出て、賀正の事を申し上げました。
1月5日。大錦上の中臣金連(ナカトミノカネノムラジ)が命(ミコトノリ)を受けて、神事(カムゴト)を宣べました。この日に大友皇子(オオトモノミコ=天智天皇の子)を太政大臣(オオキマツリゴトノオオマヘツキミ)を拝命しました。蘇我赤兄臣を左大臣としました。中臣金連を右大臣としました。蘇我果安臣(ソガハタヤスノオミ)・巨勢人臣(コセノヒトノオミ)・紀大人臣(キノウシノオミ)を御士大夫(ギョシタイフ)としました。
御史はおそらく今の大納言か。

1月6日。東宮太皇弟(ヒツギノミコ=大海人皇子=のちの天武天皇)は奉宣(ミコトノリ)して…
ある本によると大友皇子が宣命(ミコトノリ)したといいます。

冠位(カウブリクライ)・法度(ノリ)のことを施行しました。天下に大赦(オオキニツミユルス)しました。
法度・冠位の名前は詳細に新しい律令に載せました。

1月9日。高麗は上部(ショウホウ=高麗の地域の名前)の大相(ダイソウ=高麗の官位の名前)の可婁(カル)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。
1月13日。百済の鎮将(イクサノキミ=百済の占領軍の将軍)の劉仁願(リュウジンガン)は李守真(リシュシン)たちを派遣して表(フミ)を献上しました。
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解説

大友皇子と大海人皇子
この二人はのちに壬申の乱で戦うことになり、この古事記と日本書紀の編纂を命じたのが、この大海人皇子(のちの天武天皇)な訳です。その割には、大友皇子を悪く書くこともさほどない。これって妙ですよね。
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