天智天皇(三十四)高安の城と仁愛の徳・藤原の家に落雷

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天智天皇(三十四)高安の城と仁愛の徳・藤原の家に落雷

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原文

秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城、仍恤民疲、止而不作。時人感而歎曰、寔乃仁愛之德、不亦寛乎、云々。是秋、霹礰於藤原內大臣家。九月丁丑朔丁亥、新羅、遣沙飡督儒等進調。

現代語訳

(即位8年)秋8月3日。天皇は高安嶺(タカヤスノタケ=奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境)に登って、話し合って城を作ろうとしました。しかし民が疲れているのを、かわいそうに思って、使役を止めて、作りませんでした。その時代の人は感じ入って褒めて言いました。
「これが仁愛の徳が豊かであると言わずしてなんというか?」
と云々。
この秋に藤原内大臣の家に霹礰(カムトケ=落雷)がありました。
9月11日。新羅は沙飡(ササン=官位の名前)の督儒(トクジュ)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。
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解説

高安
高安山に城を築くという話は即位6年11月にあります。素直に考えて、即位6年11月に作り始めて、このページ(即位8年8月)で築城をやめた、ということでしょう。ちなみに高安山ってのは「奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境」です。

高安という土地は古事記にも登場しています。

落雷
落雷ってのは、本来は単なる自然災害ですが、世間は「祟り」という感覚があります。藤原鎌足は乙巳の変で、蘇我入鹿暗殺に関わっていますから、世間はその祟りと考えた、のかもしれません。
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