天武天皇(百三)僧正と僧都と律師を任じる・銅銭と銀銭・大伴連望多の死

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天武天皇(百三)僧正と僧都と律師を任じる・銅銭と銀銭・大伴連望多の死

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原文

二月己未朔、大津皇子、始聽朝政。三月戊子朔己丑、任僧正・僧都・律師、因以勅曰、統領僧尼如法、云々。丙午、遣多禰使人等、返之。夏四月戊午朔壬申、詔曰、自今以後必用銅錢、莫用銀錢。乙亥詔曰、用銀莫止。戊寅、祭廣瀬龍田神。六月丁巳朔己未、大伴連望多、薨。天皇、大驚之則遣泊瀬王而弔之。仍舉壬申年勳績及先祖等毎時有功以顯寵賞、乃贈大紫位、發鼓吹葬之。壬戌、三位高坂王薨。

現代語訳

(即位12年)2月1日。大津皇子(オオツノミコ)は初めて朝政(ミカドノマツリゴト=朝廷の政治)に参加しました。
3月2日。僧正(ソウジョウ)・僧都(ソウズ)・律師(リツシ)を任じました。詔(ミコトノリ)して言いました。
「僧尼を統率し治めるのは、法の通りにしなさい」
云々。
3月19日。多禰(タネ=種子島)に派遣した使者たちが帰ってきました。
夏4月15日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「今から以後、必ず銅銭(アカガネノゼニ)を用いました。銀銭(シロカネノゼニ)を用いてはいけない」
4月18日。詔して言いました。
「銀を用いるのを止めないように」
4月21日。広瀬・竜田の神を祭りました。
6月3日。大伴連望多(オオトモノムラジマグタ)が亡くなりました。天皇はとても驚いて、すぐに泊瀬王(ハツセノオオキミ)を派遣して、弔いをさせました。壬申の年の功勲と先祖たちのその時代毎の功績を挙げ、寵愛し、褒賞をしました。大紫位を贈り、鼓吹(ツヅミウチフエフキ)をして葬りました。
6月6日。三位の高坂王(コウサカノオオキミ)が亡くなりました。
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解説

大津皇子
大津皇子は天武天皇の皇子。ここで大津皇子は政治に参加しています。これはつまり大津皇子が「次期天皇の有力者」になったということになります。ただし皇太子にはなっていません。皇太子には腹違いの兄である草壁皇子(持統天皇の母)がなっています。
大津皇子はこの後、反逆の疑いをかけられ、自殺に追い込まれます。出る杭は打たれるってことなんでしょうかね。
僧正・僧都・律師
日本では仏教が政府の管理下にあります。これって普通じゃないんですよ。普通は宗教が、王に権力を与えるくらいです。「王権神授説」ってのはそういうことです。
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