持統天皇(二十八)元嘉暦と儀鳳暦・藤原へ行幸

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原文

十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。

十二月癸卯朔乙巳、送使金高訓等罷歸。甲寅、天皇幸吉野宮。丙辰、天皇至自吉野宮。辛酉、天皇幸藤原觀宮地、公卿百寮皆從焉。乙丑、賞賜公卿以下、各有差。

現代語訳

(即位4年)11月7日。送迎の使者の金高訓(キンコウクン)たちに賞(モノ)を与えました。それぞれに品がありました。
11月11日。勅(ミコトノリ)を受け、初めて元嘉暦(ゲンカノコヨミ)と儀鳳暦(ギホウノコヨミ)を行いました。

12月3日。送迎の使者の金高訓たちが帰国しました。
12月12日。天皇は吉野宮へ行きました。
12月14日。天皇は吉野宮から帰りました。
12月19日。天皇は藤原に行き、宮地を観ました。公卿百寮(マヘツキミツカサツカサ=臣下と役人)が、皆、従いました。
12月23日。公卿より下に賞(モノ)を与え、それぞれに品がありました。
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解説

元嘉暦
南朝の宋の元嘉20年(443年)に作った暦の事。
儀鳳暦
唐の麟徳2年(665)に作った暦の事ともされます。「儀鳳暦」という言葉は中国にはなく、日本でしか無い言葉。ちなみに儀鳳は中国の唐の元号で676年 - 679年の事。よって「儀鳳暦」は唐の暦法である「麟徳暦」が、「儀鳳」の時代に伝わったから、日本では「儀鳳暦」と呼ばれるようになった…というのが一般的な見方。

しかし、日本の書物の「日本国見在書目録」という日本にある「漢書」をまとめた目録には、「麟徳暦に関する本が8、儀鳳暦に関する本が3」と書かれているので、二つの暦法があったと考えた方が自然。
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