徐福が日本を作った?

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徐福が日本を作った?

漢字・読みジョフクガニホンヲツクッタ?
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概要

まとめ
●徐福は実在されたと思われる人間。
●徐福は冷酷な秦の始皇帝を騙してお金をむしり取ったダークヒーロー。
●徐福が「東に国で王となった」という記述が歴史書にはあるが、これはかなり当てにならない。
●中国の歴史書は史実を書くというよりは、歴史の中の「道徳的なお話」を残すという性質がある。
●徐福が東の国の王となったというのは、その道徳の説話の軽い要素に過ぎない。
●徐福は日本に来てすらいない、と考えた方が自然。

秦の始皇帝は、中国を統一し、初めての皇帝となり、「始皇帝」と名乗りました。しかし、全てを手に入れてもまだ不足したものがありました。それは「寿命」。どんな権力者も、老いには勝てない。何もかもを手に入れたというのに、年老いて死んでしまうのでは意味が無い。そこで、「徐福」を東の国にあるという不老不死の霊薬を得るために派遣することにしました。
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徐福が登場するのは司馬遷の「史記」

徐福が登場するのは司馬遷の史記の「淮南衝山列伝」と「秦始皇帝本紀」。一般的に知られている、「始皇帝の命によって不老不死の薬を取りに東へ出発した」というのは淮南衝山列伝に描かれたもの。

ところが、ここに大きな問題が。
淮南衝山列伝の徐福
淮南衝山列伝の記述はこんな感じです。

漢の武帝の時代(BC156-BC87)の頃の淮南王劉安(BC179-BC122)は反乱を考えていました。すると部下にこう諭されました。
「始皇帝は徐福に騙され、援助して、海外に逃亡されてしまい、東の国で王となりました。そのような愚かなことをしても、秦は傾きませんでした。今の武帝の世は始皇帝の世ほどは圧政ではありませんので、反乱は失敗しますよ。だからやめてください」
結局、劉安は反乱を思いとどまります。

それに対して秦始皇帝本紀の徐福
BC210頃。始皇帝に「不老不死の薬がある」と持ちかけた徐福。見事に援助を引き出しました。それから幾ら経っても、妙薬を探しに徐福は出発しない。そこで始皇帝が「不老不死の件はどうなった?」と徐福に問います。それで徐福が出発しようとしたとき、その帰路で始皇帝が死んでしまいました。徐福は援助をせしめ、見事逃げおおせたのです――つまりは、徐福はあの始皇帝をたぶらかした稀代の詐欺師なのです。
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徐福はダークヒーロー!

淮南衝山列伝での徐福の記述は、「事実」を書いたのではなく、物語のたとえ話に登場しただけです。これを「史実」というのはちょっとやりすぎ。そもそも劉安やその部下が「徐福が東の国で王になった」と言っているのも「事実」ではなく、当時そう思っていた程度のことです。
稀代の詐欺師!
その一方、秦始皇帝本紀での徐福は現在のイメージとは掛け離れてはいますが、当時としては「圧政を強いて、冷酷・残虐で、人を信用することのなかった始皇帝を騙した」というだけで、胸がすっとする話だったのではないか? と思います。
まぁ、それは置いておいて。

おそらく秦始皇帝本紀での記述が徐福の事実でしょう。彼は中国から出発しなかった。と考えるのが妥当です。日本に徐福の伝承が残っていますが、この当時、秦の圧政から逃れた中国の国民が、朝鮮半島に逃げています。また、徐福ではなくても、船を駆り出して海原へ新天地を求めて、結果、日本に辿り着いたというのは、十分ありうる――というよりは可能性が非常に高い話です。中国の文化の跡を史記の徐福と結びつけたとしても、それほど罪作りとは言えないでしょう。
徐福はいろいろと観光資源を生んでいる
その文化の足跡が九州の各地に残っている――と言われています。しかし徐福が稲を伝えたとか、弥生文化を伝えたとか、倭奴国を興したとか、そういうのは、眉唾。信じないで距離を取ったほうが賢明です。

中国では徐福の子孫がいっぱい居る村――徐福村が見つかる?なんて話がありましたけども、まぁ村おこしの嘘でしょうから、あんまり信じない方がいいですね。村では「徐福茶」が人気だそうです。
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