顕宗天皇(十一)即位と皇后と複数の宮

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顕宗天皇(十一)即位と皇后と複数の宮

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現代語訳

顕宗天皇即位1年春1月1日。大臣・大連たちは申し上げて言いました。
「皇太子の億計(オケ=仁賢天皇)は聖徳(ヒジリノイキオイ)が明らかにあり、天下を譲りました。陛下、正統(マサシキツイデ=正しく天皇位を清寧天皇から継いだこと)です。鴻緖(アマツヒツギ=国家を治めること)を受けて、郊廟(アメノシタ=天子行う宗教儀式=ここでは儀式の祭場)の主(アルジ)となり、祖先の強い烈(イキオイ)を受け継いで、上へは天の心に向かい、下は民の望みを満足させてください。しかし踐祚(アマツヒツギシロシメシ=天皇位を継ぐこと)を承諾しないのならば、その結果、金銀宝を持った蕃国(トナリノクニ)の群僚(マヘツキミ=臣下・官僚)たちが、遠い国も近い国も希望を失わない、ということは無いでしょう。天命に従うことも大事なことなのです。皇太子(=兄の億計=仁賢天皇のこと)は天皇位をあなたに譲りました。聖徳(ヒジリノイキオイ)はいよいよ盛りとなり、福祚(ミサイワイ=幸福)ははななだ明らかです。在孺(イトキナキトキ=幼い頃という意味?)に勤め、謙遜し敬い慈悲を持って従っていた。兄の命をうけて大業(オオキツイデ=天皇の仕事)を受け継いでください」
制(ミコトノリ)して言いました。
「可(ユルス)」
それで公卿百僚(マヘツキミタチツカサツカサ=臣下と官僚)を近飛鳥八釣宮(チカツアスカノヤツリノミヤ)に呼び寄せて、天皇位を継ぎました。百官(モモノツカサ=官僚たち)の陪位者(ハベルヒトドモ=勤めているもの)はみな、喜びました。
ある本によると、弘計天皇(オケノスメラミコト=顕宗天皇)の宮は二つありました。一つの宮は小郊(オノ)に、二つ目の宮は池野(イケノ)にあったといいます。またある本によると甕栗(ミカクリ)に宮を作ったといいます。

この月に皇后の難波小野王が立ちました。天下の赦(ツミユルス)しました。
難波小野王は雄朝津間稚子宿禰天皇(オアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト=允恭天皇)の曾孫で、磐城王(イワキノミコ)の孫で、丘稚子王(オカノワクゴノミコ)の娘です。
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解説

ついに折れる顕宗天皇
譲り合って、譲り合って、兄に「お前の方がすぐれているんだから」と一旦は納得したのですが、「優れている」ことは納得しても「天皇位」にはつかないでいた弘計王(弟)なのですが、大臣・大連や官僚たちに説得されて、ついに天皇につきました。長いな。

何度も譲り合ったのは「儒教的」なパターンです。儒教では徳によって能力や権力が図られるので、力で勝ち取ったという形式は徳とは思われません。よって、あくまで周囲の人たちから「徳があるなぁ」と評価が高まって、権力を得るというのが理想です。これは現在の中国と韓国にも当てはまります。慰安婦問題で他国を巻き込むのはそういう文化が根底にあるからです。

日本人の場合も、「みんなに望まれて」というのが理想です。日本人は「和」が大事で、もめ事を嫌います。力で勝ち取ることには問題は無いのですが、全会一致というのが日本の和の条件です。ここで描かれた「みんなに望まれて」というのが「儒教的」な物語なのか、それとも「和」のロジックなのかは何とも。
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原文

元年春正月己巳朔、大臣・大連等奏言「皇太子億計、聖德明茂、奉讓天下。陛下正統、當奉鴻緖、爲郊廟主、承續祖無窮之烈、上當天心、下厭民望。而不肯踐祚、遂令金銀蕃国群僚、遠近莫不失望。天命有屬、皇太子推讓、聖德彌盛、福祚孔章、在孺而勤、謙恭慈順。宜奉兄命、承統大業。」制曰「可。」乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮、卽天皇位、百官陪位者、皆忻々焉。(或本云「弘計天皇之宮有二所焉、一宮於小郊、二宮於池野。」又或本云「宮於甕栗。」)是月、立皇后難波小野王、赦天下。(難波小野王、雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫、磐城王孫、丘稚子王之女也。)
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