兄の友愛と弟の恭敬

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顕宗天皇(九)兄の友愛と弟の恭敬

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原文

十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、再拜從諸臣之位曰「此天皇之位、有功者可以處之。著貴蒙迎、皆弟之謀也。」以天下、讓天皇。天皇、顧讓以弟、莫敢卽位。又、奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子、前後固辭曰「日月出矣而爝火不息、其於光也不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌、不亦勞乎。所貴爲人弟者、奉兄・謀逃脱難・照德解紛而無處也。卽有處者非弟恭之義、弘計不忍處也。兄友・弟恭不易之典、聞諸古老、安自獨輕。」

現代語訳

(清寧天皇即位5年)12月に百官(モモノツカサ=官僚・役人)が大勢集まりました。皇太子の億計(オケ=仁賢天皇)は天子(ミカド)の璽(ミシルシ)を取って、天皇の坐(ミマシ)に置きました。再拝して諸臣の位について言いました。
「この天子の位は功の有るものが就くべきだろう。貴いことを表して、宮へと迎えられたのは、すべて弟(イロド=顕宗天皇)の謀(ハカリゴト)だ」
天下を顕宗天皇に譲りました。顕宗天皇はそう言われましたが、弟であるという理由で敢えて天皇位にはつきませんでした。また、白髪天皇(シラカノスメラミコト=清寧天皇)がまず兄に天皇位を伝えようと思って、兄である億計王を皇太子に立てたのを受けて、後にも先にも固く辞して言いました。
「太陽や月が出ても、爝火(トモシビ)を吹き消さないでいると、その爝火の光はただ邪魔なだけです。雨が降っても尚、畑に水をやるならば、これはただ苦労なだけです。弟というものを貴ぶのは、兄に仕えて難(ワザワイ)から逃れるように策謀して、兄の徳(イキオイ)を照らして、紛(ミダレ)を解いて、表には立たないからです。もしも表立って立てば、弟恭(オトトイヤマイ=弟の恭敬)の義ではない。弘計王(オケノミコ=自分のこと)は表立ってはいるのは忍びない。兄は弟を友愛を持って接し、弟は兄に恭敬の心を持って接するのは変わらない決まりごとなのです。これは古老から聞いたことです。どうしてわたし一人がこの道理を軽んじることができましょうか」
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解説

まだやるのか譲り合い
仁賢天皇が「皇太子」になった以上は世間的にも清寧天皇の意思としても「兄が天皇」というのが既定路線だったのでしょう。この仁徳天皇から清寧天皇までの天皇は兄から弟へと位が移っていますから、これが「道理」ってものです。

ところが仁賢天皇はどうしても弟に先に天皇位を譲りたいよう。日本は古来から末子相続で末っ子が天皇位を継ぐというのが本来だったのが、儒教の影響で長兄が継ぐようになっていた。儒教は年齢が上ってことはイコール偉いってことですから、長兄が問答無用で偉いんです。

そういう儒教の価値観と日本の古来の価値観が、ここでもう一度逆転したんじゃないかと思うのです。ただ、日本書紀を書いたのは8世紀ですし、この顕宗天皇のところはどうやら中国人が書いたようなので、日本書紀は儒教の立場から描かれているということになります。なので末子相続をただ「末子相続したよ」とは書けない。そこで理由をひねり出した。もちろん「弟が出自を明らかにした」というのはそもそも伝承の中にあったのでしょう。でもその伝承を理由にして天皇位を継がせるかどうかは、筆者の考えが反映された。

日本人にとって弟が王になるのが普通だった。だから出自を明らかにするのが「弟」であるのが「日本的物語の中」では当たり前だった。史実という意味ではなく、物語にしたときに「普通」だった。聞いてる人にとって飲み込みやすい展開だった。それで弟が出自を明らかにする伝承があり、そのまま弟が天皇位を継ぐことに疑問を持たなかった。

でも「儒教の感覚」では違う。出自を明らかにすることと、弟が天皇位につくことは儒教の中では全く関係が無い。例えば…儒教的世界観の「水戸黄門」で印籠を出すのは、あくまで助さんと格さんであって、黄門様ではないように、出自を明らかにすることと、高貴かどうかは関係無い。むしろ儒教では偉い人ほど「何もしない」。儒教の考えではこの「弟が出自を明らかにする」ということと「弟が天皇位につく」という原因と結果の因果関係は本来は曖昧だった。だから、「兄が弟に譲る」理由と「弟が断る」理由を長々と書いてしまった、のだろうと思います。

そういう感覚の違い、文化の違いが重なり合って、記紀が描かれているのでしょう。
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