飯豊青皇女は忍海角刺宮で臨朝秉政しました。

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顕宗天皇(八)飯豊青皇女は忍海角刺宮で臨朝秉政しました。

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原文

白髮天皇三年春正月。天皇、隨億計王、到攝津国、使臣連持節、以王靑蓋車、迎入宮中。夏四月、立億計王爲皇太子、立天皇爲皇子。

五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豊靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豊靑尊。當世詞人歌曰、
野麻登陛儞 瀰我保指母能婆 於尸農瀰能 莒能陀哿紀儺屢 都奴娑之能瀰野
冬十一月、飯豊靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。

現代語訳

白髪天皇(シラカノスメラミコト=清寧天皇)の即位3年春1月。顕宗天皇は億計王(オケノミコ=仁賢天皇)に従って、摂津国に到着しました。臣・連に節(シルシ)を持たせて、王(ミコ=億計王のこと)の青蓋車(ミクルマ=天皇が乗る)で宮中(ミヤノウチ)に迎え入れられました。

夏4月。億計王(オケノミコ)を立てて皇太子とし、顕宗天皇を皇子としました。

清寧天皇即位5年春1月に白髪天皇(シラカノスメラミコト=清寧天皇)が崩御しました。この月に皇太子の億計王と顕宗天皇は位を譲りあいました。長いこと、天皇の位が決まりませんでした。それで顕宗天皇の姉の飯豊青皇女(イイドヨノアオノヒメミコ)は忍海角刺宮(オシヌミノツノサシノミヤ)で臨朝秉政(ミカドマツリゴト)しました。忍海飯豊青尊(オシヌミノイイドヨノアオノミコト)と自称しました。その時代の詞人(ウタツクルヒト)は歌を歌って言いました。
倭辺(ヤマトヘ)に 見(ミ)が欲(ホ)しものは 忍海(オシヌミ)の この高城(タカキ)なる 角刺の宮
歌の訳大和の周辺で見たいものっていうと、忍海(現在の奈良県北葛城郡新庄町忍海)の高台にある角刺宮だ

冬11月。飯豊青尊は崩御しました。葛城埴口丘陵(カツラキノハニクチノオカノミサザキ=奈良県北葛城郡新庄町北花内?)に葬りました。
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解説

兄弟が位を譲り合っているうちに
顕宗天皇と仁賢天皇が位を譲りあっているうちに、飯豊皇女が執政したとあります。これってどうなんでしょうね。つまりふたりの皇子が実は幼年だったということでしょうか。それなら姉の飯豊皇女が摂政となったとしても全然不思議じゃない。

しかも、飯豊皇女の宮である「角刺宮」は、高台にあって大和に行ったら見たほうがいいものとして、その時代では歌に歌われるくらい有名だった、となると角刺宮は立派な建物だったのでしょう。となると、飯豊皇女を「清寧天皇」と「顕宗天皇」の間の空白を埋めるための単なる「リリーフピッチャー」と見るのは難しいんじゃないかと思うのです。飯豊皇女にはかなり強い権力があった。強いといっても、神功皇后ほどじゃないでしょうよ。でも、それなりにはあったハズです。ただ飯豊皇女が政治を行ったのは一年に満たないのです。矛盾。

飯豊皇女は強いのか、弱いのか。

前のページに書いたのですが、大和朝廷は「貿易経済会議」のようなものじゃないか?と思っています。TPPのような「経済圏」を共有する国の集まりってことです。TPPとEUの中間みたいなものじゃないかと。それで大和朝廷とは別に経済圏は同じだけど違うジャンルのグループがあった。例えば生協と農協のような。キャラが被ってないうちは良かったけど、生協が農家に苗や農薬を売りはじめると当然揉める。

儒教的な考えだと、天下は一つしか許されない。だけども、この貿易経済圏というシステムならば、複数のグループが並存することも可能です。飯豊皇女は大和朝廷とは別のグループの人物だったんじゃないかなと。別のグループってのはつまり「葛城」です。

この仮説はいずれ、ちゃんとまとめたいです。
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