斉明天皇(二)竜に乗る者・北と東の蝦夷・瓦葺きの宮殿

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斉明天皇(二)竜に乗る者・北と東の蝦夷・瓦葺きの宮殿

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原文

元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、卽天皇位於飛鳥板蓋宮。夏五月庚午朔、空中有乘龍者、貌似唐人着靑油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山、及至午時、從於住吉松嶺之上向西馳去。秋七月己巳朔己卯、於難波朝饗北(北越)蝦夷九十九人・東(東陸奧)蝦夷九十五人、幷設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。八月戊戌朔、河邊臣麻呂等、自大唐還。冬十月丁酉朔己酉、於小墾田造起宮闕擬將瓦覆、又於深山廣谷擬造宮殿之材、朽爛者多遂止弗作。是冬、災飛鳥板蓋宮、故遷居飛鳥川原宮。

現代語訳

即位1年春1月3日。皇祖母尊(スメミオヤノミコト天皇の母という意味で、ここでは皇極上皇であり斉明天皇のこと)が飛鳥板蓋宮(アスカノイタブキノミヤ)で天皇に即位しました。

夏5月1日。空に竜に乗る者がありました。その風貌は唐の人に似ていました。青い油(アブラギヌ)の笠(=頭にかぶる雨具)を着て、葛城嶺(カズラキノタケ)から走って胆駒山(イコマノヤマ)に隠れました。午の時(=正午の事)になって、住吉(スミノエ)の松嶺(マツノミネ)の上から、西に向かって走り去りました。

秋7月11日。難波の朝廷で北の…
北は越国です。

蝦夷99人。東の…
東は陸奥(ミチノク)です。

蝦夷95人に宴会して歓待しました。合わせて百済の調(ミツキ)の使者150人にも宴会を設けて歓待しました。柵養(キカウ=境界の柵を作る仕事)の蝦夷9人、津苅(ツカル=津軽)の蝦夷6人に冠をそれぞれ二階級、授けました。

8月1日。河辺臣麻呂(カワヘノオミマロ)たちは大唐から帰りました。

冬10月13日。小墾田(オハリダ=奈良県明日香村の地名)に宮闕(オオミヤ)を造って立てて、瓦葺きにしようとしました。また深山広谷(フカキヤマヒロキタニ)から宮殿に使おうとした木材を探しましたが、朽ちてただれたものが多かったです。ついに止めて作りませんでした。

この冬に飛鳥板蓋宮が火災に遭いました。それで飛鳥河原宮に移りました。
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解説

竜に乗る者
この辺りの記述は住吉大社神代記にほぼ同じ記述があります。住吉大社ではこの事件を「神域巡検」と書いています。神域巡検ってのは、まぁ自分の領分を見回りしてるってことです。
扶桑略記という平安時代の終わり(11世紀)に書かれた本には「その時代の人は、蘇我豊浦大臣(=蘇我蝦夷)の霊だ!と言った」とあります。帝王編年記(14世紀成立)では「人がたくさん死んだ。それはこの霊のせいだ」と書いてあります。
この竜に乗る者に関してはいろいろと推測が立ちます。
何せ斉明天皇とは皇極天皇であり、蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿は皇極天皇の眼の前で中大兄皇子に殺され、蘇我蝦夷自身もその後自殺に追い込まれています。この暗殺事件に皇極天皇が関係していたら? いや首謀者が皇極天皇だったら? それならば恨まれて当然。少なくとも、世間は皇極天皇がまた斉明天皇として返り咲いたことが「不愉快」で「蘇我蝦夷に呪い殺されればいいのに」と考えたから、こう言った噂が、後々まで残った原因じゃないか??? とも考えられます。
瓦葺き
過去、宮は度々、火災に遭っています。この対策に瓦葺きにしようとしたんじゃないかと思われますが、結局失敗。瓦に耐えられる木材を得られなかったから、なのですが、瓦の屋根ってのはこの時代には、すでに「寺」では利用されていた筈なんですよね。最古の瓦屋根は元興寺とされます。ということは、天皇の家ってのは、寺よりお金がかかってなかった、ってことでしょうか。
まぁ、天皇の宮は世代が変われば移動するのが普通で、寺のようにずっとその場所に有るものとは違うので、瓦葺きじゃないのはしょうがないのですが。
ところで木材を探してみたのですが「朽ちてただれた者が多かった」とあるのは、木材が朽ちているのではなくて、山に入ったら、漆やハゼでかぶれて「ただれた」という意味じゃないかと思います。つまり、「山に入るな」と「山の神に拒絶された」。だから宮を立てるのをやめた。という意味じゃないか、と思いましたが、その後も「使えない木材」を「ただれた」と表現しているので、違うか。
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