天武天皇(二十七)上道と中道での戦い・犬養連五十君と廬井造鯨

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天武天皇(二十七)上道と中道での戦い・犬養連五十君と廬井造鯨

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原文

時、東師頻多臻。則分軍、各當上中下道而屯之。唯將軍吹負、親當中道。於是、近江將犬養連五十君、自中道至之、留村屋。而遣別將廬井造鯨、率二百精兵、衝將軍營。當時麾下軍少、以不能距。爰有大井寺奴名德麻呂等五人從軍、卽德麻呂等爲先鋒、以進射之。鯨軍不能進。是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。而乘勝、兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走、多殺士卒。鯨乘白馬、以逃之、馬墮泥田、不能進行。則將軍吹負、謂甲斐勇者曰、其乘白馬者廬井鯨也、急追以射。於是、甲斐勇者馳追之。比及鯨、鯨急鞭馬、馬能拔以出埿、卽馳之得脱。將軍亦更還本處而軍之。自此以後、近江軍遂不至。
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現代語訳

その時、東の師(イクサ=兵)は頻繁に大勢、日増しに集まってきました。そこで軍を分けて、それぞれ上中下の道(奈良の三つの道)に当てて駐屯させました。ただ将軍の吹負(フケイ)だけが自ら中道に当たりました。近江の将軍の犬養連五十君(イヌカイノムラジイキミ)は中道から来て、村屋(ムラヤ=奈良県磯城郡田原本町蔵戸)にとどまり、別将(補助の将軍)の廬井造鯨(イオイノミヤツコクジラ)を派遣して200の精鋭兵を率いて、吹負将軍の陣営を突きました。その時、麾下(シルシノハタノモト=大将の陣)の軍が少なく、防ぐことができませんでした。大井寺(オオイデラ=村屋の寺)の奴(ヤッコ=従者)の名前は徳麻呂(トクマロ)など5人が居て、軍に従いました。すぐに徳麻呂たちは先鋒として進み、弓を射ました。鯨(クジラ=廬井造鯨)の軍は進めなくなりました。
この日に三輪君高市麻呂(ミワノキミタケチマロ)・置始連菟(オキソメノムラジウサギ)は上道に当たり、箸陵(ハシノハカ=ヤマトトトヒモモソヒメの墓とされる)で戦いました。近江の軍を大いに撃破して、勝利に乗って、ついでに鯨の軍の後ろを断ちました。鯨の軍は皆、解散して走って逃げて、多くの士卒(イクサ=兵)を殺しました。クジラは白馬(アオウマ)に乗って逃げました。馬は深い泥の田に落ちて、進むことが出来なくなりました。将軍の吹負(フケイ)は甲斐(カイ=現在の山梨県)の勇者を走らせて負わせました。鯨に追いつくと、鯨は急に馬に鞭を打ちました。馬は泥から抜けて、出ました。それで走って免れました。吹負将軍は本拠(モトノトコロ=ここでは飛鳥の事)に帰って軍を起こしました。これより以後、近江の軍は来ませんでした。
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解説

吹負はよく負けるなぁ。
ここでも東国の甲斐の勇者に、大事な役目が任されています。やはり、古代では東国の人間は戦争向きという印象を持っていたのだと思います。よく言えば勇猛果敢。悪く言えば野蛮。

もう一つ。大井寺の奴の5人も戦争に参加。寺の奴というのは、寺で働くものです。現在の日本では寺というと、浮世離れしていて、戦いとは無縁と思っていますが、少なくとも戦国時代までは、寺というのは非常に好戦的なものでした。別に日本だけでなくどこの国でも宗教は私兵を持っているのが当たり前でした。

しかし、ここは古代。神道の神社は穢れを嫌い基本的に「私兵」というのは持ちません。そういう時代にまだ日本に入りたての寺が私兵を持っているのか?

持っていると思います。
私は穢れを嫌う神社に対して、穢れという概念のない仏教は私兵を持つことが可能だった。というより、この時代において寺は「私兵を持つため」に設置するということもあったんじゃないかと思います。
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