持統天皇(十二)脂利古の息子の麻呂と鉄折の出家・吉野宮へ行幸

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持統天皇(十二)脂利古の息子の麻呂と鉄折の出家・吉野宮へ行幸

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原文

三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬国于前殿。乙卯、大學寮獻杖八十枚。丙辰、務大肆陸奧国優●(山偏に耆)曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鐵折、請剔鬢髮爲沙門。詔曰「麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可隨所請、出家修道。」庚申、宴公卿賜袍袴。辛酉、新羅使人田中朝臣法麻呂等、還自新羅。壬戌、詔出雲国司、上送遭値風浪蕃人。是日、賜越蝦夷沙門道信、佛像一軀・灌頂幡鍾鉢各一口・五色綵各五尺・綿五屯・布一十端・鍬一十枚・鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等、獻隼人一百七十四人、幷布五十常・牛皮六枚・鹿皮五十枚。戊辰、文武官人進薪。己巳、賜百官人等食。辛未、天皇幸吉野宮。甲戌、天皇至自吉野宮。
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現代語訳

即位3年春1月1日。天皇は万国(クニグニ=すべての国)を前殿(マエノミアラカ=太極殿)に元日の朝拝しました。
1月2日。大学寮(フムヤツカサ=学生を管理する部署)は杖(=中国の風習で元日に悪鬼を払う杖を献上する)を80枚献上しました。
1月3日。務大肆の陸奧国の優●(山偏に耆)曇郡(ウタキマノコオリ)の城養(キカウ)の蝦夷の脂利古(シリコ)という息子の麻呂と鉄折(カナオリ)とを髭髪(ヒゲカミ)を剃って、沙門(ホウシ=僧)になりたいと請願しました。詔(ミコトノリ)して言いました。
「麻呂たち、幼く若くとも、閑雅(ミヤビ=優雅)で、欲が少ない。結果、ここに至って、蔬(クサビラ=野菜)を食べて、訓戒を守っている。請願するままに、出家して修道しなさい」

1月7日。公卿(マヘツキミ=臣下)に宴(トヨノアカリ)をして袍袴(キヌ=衣服)を与えました。
1月8日。新羅の使者の田中朝臣法麻呂(タナカノアソミノリマロ)が新羅から帰りました。
1月9日。出雲国司に詔して、風浪に遭った蕃(トナリノクニ)の人を送りました。この日に越の蝦夷の沙門(ホウシ=僧)の道信(ソウシン)に仏像一軀・灌頂幡(カンジョウノハタ=灌頂=頭頂に聖なる水を注ぐ儀式で使う旗)・鍾・鉢各一口・五色綵(イツクサノシミノキヌ=いろんな色に染めた布)各五尺・綿五屯・布一十端・鍬一十枚・鞍一具を与えました。筑紫大宰の粟田真人朝臣(アワタノマヒトノアソミ)たちは、隼人174人と、布五十常・牛皮六枚・鹿皮五十枚を献上しました。
1月15日。文武の官人(ツカサノヒト=役人)たちは薪(ミカマギ)を献上しました。
1月16日。百官(ツカサツカサ)の人たちに食べ物を与えました。
1月18日。天皇は吉野宮に行きました。
1月21日。天皇は吉野宮から帰りました。
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解説

吉野宮
吉野は昔からの避暑地というか、遊興地というか、そういうノンビリした場所なんです。だから持統天皇は「遊び」に行ったのかもしれません。しかし吉野といえば、夫である天武天皇が、クーデター(壬申の乱)を起こした最初の土地。ここに隠遁し、近江王朝の目をくらませたからこそ、大逆転があったのです。その土地へ向かったのには吉野に何か秘密があったのではないかと。

案外、役小角(エンノオヅヌ)が関わっているとか?
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