持統天皇(五十六)文忌寸博勢と下訳語諸田を種子島で蛮族を探させる

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持統天皇(五十六)文忌寸博勢と下訳語諸田を種子島で蛮族を探させる

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現代語訳

即位9年春1月5日。浄広弐を皇子舎人(=舎人皇子)に授けました。
1月7日。公卿大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)を内裏(オオウチ)で宴会してもてなしました。
1月15日。御薪(ミカマギ=供える薪)を献上しました。
1月16日。百官(ツカサツカサ=役人)たちを宴会をしてもてなしました。
1月17日。弓を射る儀式をしました。4日で終わりました。

閏2月8日。持統天皇は吉野宮に行きました。
2月15日。車駕(スメラミコト天皇の乗る車)は宮に帰りました。

3月2日。新羅は王子の金良琳(キンリョウリン)・補命(フミョウ=官名かどうかわからない)の薩飡(サツサン=新羅の官名)の朴強国(ボクゴウコク)たち、および、韓奈麻(カンナマ)の金周漢(キンシュウカン)・金忠仙(キンチュウセン)たちを派遣して、国の政治を申し上げました。また調(ミツキ)を献上し、物を献上しました。
3月12日。持統天皇は吉野宮に行きました。
3月15日。天皇は吉野から帰りました。
3月23日。務広弐の文忌寸博勢(フミノイミキハカセ)・進広参の下訳語諸田(シモノオサノモロタ)たちを多禰(タネ=種子島)に派遣して、蛮(ヒナ=異民族)の居所を探し求めさせました。
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解説

このページで書かれていることで、他のページにない特殊なところは、「種子島に異民族を探させた」というところでしょう。

種子島・屋久島との交流はこれ以前、推古天皇の時代から見られます。でも、ここでは蛮(ヒナ)はいるのかと探させています。なぜでしょうか。

私が思うにです。

日本では古来から「異民族」を珍重していました。日本人は穢れを嫌うあまり、戦争を嫌い、動物の死体からとれた筆を嫌いました。それが日本の発展を妨げていましたが、この穢れ問題を乗り越えるために、聖徳太子は穢れの感覚のない仏教を取り入れました。しかし、これで穢れ問題が完全に解決することはなく、文化は根強く日本に残り、穢れた仕事は嫌われていました。

そこで、日本人は「異民族」を必要とした。朝鮮にその人材を求めましたが朝鮮とはあまりに文化が違っていた(朝鮮は儒教)。また白村江の戦い以降、関係は希薄になってしまいました。この時代になると長い間、穢れ対策で重宝してきた蝦夷にも、人材が枯渇してきたのではないかと思います。人材が枯渇というのは、「蝦夷にも穢れの意識」が芽生えたという意味です。
●穢れの感覚は、水耕稲作・畑作が根っこなので、蝦夷にも農業が広まれば必然、穢れの感覚が芽生えると思います。

それで種子島に蛮族(異民族)を求めるようになったのではないか?ということです。

また、貿易というのは文化が違うからこそ成立します。見たこともないから「高く買う」わけです。だから蛮族というか、異民族を求めた。単純に商売ですね。これも大きな理由だったんじゃないかと思います。
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原文

九年春正月庚辰朔甲申、以淨廣貳授皇子舍人。丙戌、饗公卿大夫於內裏。甲午、進御薪。乙未、饗百官人等。丙申、射、四日而畢。閏二月己卯朔丙戌、幸吉野宮。癸巳、車駕還宮。三月戊申朔己酉、新羅遣王子金良琳・補命薩飡朴强國等及韓奈麻金周漢・金忠仙等、奏請國政、且進調獻物。己未、幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野。庚午、遣務廣貳文忌寸博勢・進廣參下譯語諸田等於多禰、求蠻所居。
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