常に西蕃と称し、春秋には朝貢しましょう

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神功皇后(三十四)常に西蕃と称し、春秋には朝貢しましょう

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原文

於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村今云州流須祇、相見欣感、厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟国登辟支山、盟之。復登古沙山共居磐石上、時百濟王盟之曰「若敷草爲坐恐見火燒、且取木爲坐恐爲水流、故居磐石而盟者示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歲、無絶無窮、常稱西蕃、春秋朝貢。」則將千熊長彦至都下、厚加禮遇、亦副久氐等而送之。

現代語訳

百済の王の肖古(ショウコ)と王子の貴須(クルス)は軍隊を率いて会いに来ました。比利(ヒリ)・辟中(ヘチュウ)・布彌支(ホムキ)・半古(ハンコ)の4つの邑が自ずから降服しました。
それで百済の王の親子と荒田別(アラタワケ)・木羅斤資(モクラコンシ)たちは、共に意流村(オルスキ)で会いました。
現在は州流須祇(ツルスキ)と言います。

会ったことを互いに喜びあい、厚く礼を持って、送り派遣しました。ただし、千熊長彦(チクマナガヒコ)と百済王だけは百済国へと到着して、辟支山(ヘキノムレ)に登って盟約を結びました。
また古沙山(コサノムレ)に登って、共に磐石(イワ)の上に居ました。百済王が盟(チカ)って言いました。
「もし、草を敷いて座れば、火に焼かれる恐れがある。また木の上に座れば、水にながされる恐れがある。よって磐石(イワ)の上で盟(チカ)うということは長遠(トコシエ)に朽ちないということを示す。今より以後、千秋万歳(チアキヨロヅヨ)に絶えることなく、窮(キワマル)ことはない。常に西蕃(ニシノトナリ)と称し、春秋には朝貢しましょう」
千熊長彦(チクマナガヒコ)を都下(ミヤコ)に到着してから厚く礼を持ってもてなしました。また久氐(クテイ)たちを(千熊長彦)に添えて送りました。
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解説

西蕃
中国人から見て「西」のチベット人などを指す言葉。もちろん蔑称。中国人は中華思想で「漢民族最高!」という考えで、漢民族以外は見下しているので、蔑称かどうかは大した意味はありません。

それでどうして百済の王が「西蕃として」という言い方をするのかというと、日本が東だからです。表現としては「日本を上に見た」へりくだった言い方ということになります。でも大事なのはそういうことではありません。西蕃ということは百済が「日本の西の端」という意味です。別に百済が日本の領地だったとかそういう意味ではなく、まず日本は中国を模倣しているとはいえ「独立国家」という意識があったということです。

当然、これらの記述は後の「脚色」ということは十分ありますので、この時代(4世紀)から独立国家の意識があったと、断定して主張するわけではありません。
しかし、崇神天皇の時代から「儒教」の影響が見られるのに、それいより以前の神武天皇の時代には儒教の影響が見られないということを考えると、これらが史実かどうかはともかくとして「記述」自体は実際に古いものではないか? 古い可能性が案外と高いんじゃないか? と考えています。
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