天朝の鴻澤は遠い邑にも

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神功皇后(三十五)天朝の鴻澤は遠い邑にも

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原文

五十年春二月、荒田別等還之。夏五月、千熊長彦・久氐等、至自百濟。於是皇太后、歡之問久氐曰「海西諸韓、既賜汝国。今何事以頻復來也。」久氐等奏曰「天朝鴻澤、遠及弊邑。吾王歡喜踊躍、不任于心、故因還使、以致至誠。雖逮萬世、何年非朝。」皇太后勅云「善哉汝言、是朕懷也。」増賜多沙城、爲往還路驛。

現代語訳

即位50年春2月。荒田別(アラタワケ)たちは帰って来ました。
夏5月に千熊長彦(チクマナガヒコ)・久氐(クテイ)たちは百済から帰って来ました。皇太后は喜んで久氐(クテイ)に問うて言いました。
「海の西の諸々の韓(カラクニ)をあなたの国に与えた。今、何があって頻繁に(日本に)来たのか?」
久氐たちが申し上げました。
「天朝(ミカド)の鴻澤(ウルオイ=潤い=恩恵)は遠く賤しい邑(クニ)にも及んでいます。わたしどもの王も喜び、踊り跳ねて、心に隠すこともできません。使者が誠意を示します。万世(ヨロズヨ)に及ぼうとも、いつの年でも朝貢いたしましょう」
皇太后は勅(ミコトノリ)していいました。
「善いことです。
あなたの言葉は。
これは、わたしが思っていたことなのです」
多沙城(タサノサシ)をさらに与えて、通う道の「駅(ウマヤタチ)」としました。
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解説

多沙城
三国史記にも「多沙」という地名がみられます。慶尚南道と全羅南道の境目で、ようは百済と伽耶(任那・加羅)の境目です。
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