聖王は上にその輝きは日月のよう。臣は下に固い山岳のよう

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神功皇后(三十七)聖王は上にその輝きは日月のよう。臣は下に固い山岳のよう

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原文

卽年、以千熊長彦、副久氐等遣百濟国、因以、垂大恩曰「朕、從神所驗、始開道路、平定海西、以賜百濟。今復厚結好、永寵賞之。」是時、百濟王父子、並顙致地、啓曰「貴国鴻恩、重於天地、何日何時、敢有忘哉。聖王在上、明如日月、今臣在下、固如山岳、永爲西蕃、終無貳心。」

現代語訳

(即位51年)その年、千熊長彦(チクマナガヒコ)を久氐(クテイ)たちに添えて百済国に派遣しました。それで大恩(ウツクシビ)を垂れて言いました。
「わたしは神の示した場所へと従って、初めて道路(ミチ)を開きました。海の西を平定して百済に与えました。今、また厚く親交を深めて、永遠に寵愛し、賞(タマヒモノ)をする」
このとき、百済の王の父子は並んで頭を地面にこすりつけて言いました。
「貴国(カシコキクニ)の鴻恩(ウツクシビ)は天地よりも重い。いずれの日もいずれの時にも忘れることなど有ろうか(有るわけがない)。聖王(ヒジリノキミ)は上に居り、その輝きは日月のようです。今、臣(ヤツカレ=部下である自分)は下に居て、固い山岳(ヤマ)のようです。永遠に西蕃(ニシノトナリ)となりましょう。背く心は無いのです」
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解説

百済と倭国の関係
魏志倭人伝によれば3世紀の朝鮮半島の人口と倭の人口は明らかに倭が多く、古代においての「国力」や「武力」とはすなわち「人口」だったことを考えると、倭と百済の上限関係は、明らかに倭が上、だったと考えて差し支えないでしょう。
神功皇后の時代は4世紀

しかし、大和朝廷にとって米の生産できない百済は大和朝廷に仲間入りすることは叶わない場所です。米によって税を取り、米という共通価値を国家の根本にしていたのですから。その象徴が「天皇」なのです。

でも、大和朝廷にとって百済は中国との貿易には欠かせない。百済にとっても大和朝廷(倭国)は武力があるし、敵対したくない。それどころか、大和朝廷(倭国)と中国との貿易の間に立てば莫大な利益を得ることができる。百済と大和朝廷の関係は、上下関係というよりは、利害が一致したギブアンドテイクの関係といった方が良いでしょう。
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