沙至比跪と美女、その死の経緯

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神功皇后(三十九)沙至比跪と美女、その死の経緯

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原文

五十五年、百濟肖古王薨。

五十六年、百濟王子貴須、立爲王。

六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅

百濟記云、壬午年、新羅不奉貴国。貴国遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅国。加羅国王己本旱岐・及兒百久至・阿首至・国沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅国王妹既殿至、向大倭啓云「天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討、反滅我国。兄弟人民、皆爲流沈、不任憂思。故、以來啓。」天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。

一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還、乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者、比跪密遣使人問天皇怒解不、妹乃託夢言「今夜夢見沙至比跪。」天皇大怒云「比跪何敢來。」妹、以皇言報之。比跪、知不兔、入石穴而死也。
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現代語訳

即位55年。百済の肖古王(ショウコオウ)が亡くなりました。
即位56年。百済の王子の貴須(クルス)が王となりました。
即位62年。新羅が朝貢しませんでした。その年に襲津彦(ソツヒコ)を派遣して新羅を撃ちました。
百済記によると…
壬午年(ミズノエウマノトシ=382年?)に新羅は貴国(カシコキクニ=日本)に仕えませんでした。貴国は沙至比跪(サチヒコ=おそらく襲津彦)を派遣して(新羅を)討たせました。新羅人は美女二人を着飾って、津(ミナト)に迎えて騙そうとしました。沙至比跪(サチヒコ)はその美女を受け取り、寝返って加羅国を討ちました。
加羅国の王の己本旱岐(コホカンキ)と兒百久至(コハククチ)・阿首至(アシュチ)・国沙利(コクサリ)・伊羅麻酒(イラマス)・爾汶至(ニモンチ)たちは、その人民と、百済に逃げました。百済は厚遇しました。加羅王の妹の既殿至(ケデンチ)は大倭(ヤマト)に出向いて言いました。
「天皇が沙至比跪(サチヒコ)を派遣して新羅を討たせようとしました。しかし沙至比跪(サチヒコ)は新羅の美女をもらい受け納めて、(命令を捨てて)新羅を討ちませんでした。寝返って、我が国(加羅)を滅ぼしました。兄弟(ハラカラ)・人民(ヒトクサ)は皆、放浪しています。憂いに耐えません。それで(日本に)来たのです」
天皇はひどく怒って、すぐに木羅斤資(モクラコンシ)を派遣して、兵衆(イクサビト)を率いて加羅に行き、回復させたといいます。

別の伝によると…
沙至比跪(サチヒコ)は天皇の怒りを知り、公には(日本に)帰らず、密かに日本に帰り、日本で隠れていました。沙至比跪(サチヒコ)の妹は皇宮に行くことがありました。沙至比跪(サチヒコ)は密かに使者を派遣して天皇の怒りが解けたかどうかを問わせました。妹は夢に託して言いました。
「今朝の夢に沙至比跪(サチヒコ)を見ました」
すると天皇はひどく怒って言いました。
「沙至比跪(サチヒコ)はどうして来た!」
妹は天皇の言葉を報告しました。沙至比跪(サチヒコ)は罪を免れないと知って、石穴(イワツボ)に入って死んだといいます。
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解説

肖古王
肖古王が死に、王子の貴須が王となります。これは百済14代王の近仇首王と見て間違いありません。629年に成立した中国の歴史書の「梁書」には近仇首王を「須」と書いてあるので、合致します。
たらしこまれるソツヒコ
葛城襲津彦というと、「神功皇后(二十六)微叱許智は病気になって死にそうです」で新羅にいっぱい喰わされた経緯があるのです。それに新羅外交の専門家、だと思うのですが、美女には弱かったか。
天皇
ここでの天皇が神功皇后なのか?はなんとも。物語で読めば神功皇后となります。

百済記からの引用となっている前文は百済から見た物語なので「ソツヒコ」が「サチヒコ」と書かれています。百済と日本が言語が違い、発音の齟齬があったということであり、同時に百済記は「実在」すると考えるべきものであり、また日本書紀が結構、厳密に書かれたという証拠だと思われます。
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