阿知使主・都加使主を呉へと派遣して縫工女を求める

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応神天皇(二十一)阿知使主・都加使主を呉へと派遣して縫工女を求める

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原文

卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗国、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。

現代語訳

即位37年春2月1日。阿知使主(アチノオミ)・都加使主(ツカノオミ)を呉(クレ=中国江南地方)へと派遣して縫工女(キヌヌイメ)を求めました。阿知使主(アチノオミ)たちは高麗国(コマノクニ)に渡って呉に向かおうと思っていました。高麗に到着しましたが、この先の道路(ミチ)がわかりませんでした。道を知る人を高麗に請いました。高麗の王は久禮波(クレハ)・久禮志(クレシ)の二人を添えて導者(シルベ)としました。それで呉に至ることが出来ました。呉の王は工女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・吳織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の4人の婦女を与えました。
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解説

応神天皇(十八)高麗の王は日本国に教える、でブチ切れるで高麗(=高句麗)とは関係が悪化しているんじゃないかと思ったのですが、ブチ切れたのは即位28年。このページは37年だから単純計算で8年半。二倍歴としても4年以上経ってますから怒りは消えたのか?

応神天皇の時代は高句麗と敵対関係にあった、というのが定説です。では高句麗はなぜ、日本の使者に道案内をつけたのか? 妙ですよね。この記事が事実とするならば「そもそも敵対関係では無かった」と考えないとおかしい。

わたしはこのサイトで鹿児島(隼人)→沖縄→台湾→東南アジア・中国南部→果てはインド・エジプトまでを繋ぐ「海洋貿易文化圏」があったと主張しています。だから日本には東南アジアの神話や風習が多いのだと。だったら、そちらを通過してこれらの「技術」は伝わった、という可能性もあると思うのです。では、それなら「敵対関係があった高句麗に道案内してもらった」という記述は不要です。

つまり「高句麗と敵対関係にあった」という従来の考えはおかしいと思うのです。まぁ、ある程度の緊張はあったかと思いますが、敵対関係と言えるほどのことは無かった。高句麗としても日本に手を貸すくらいの関係だった。というのが本当のところじゃないかと思っています。

それとは別に「公式に朝廷に伝わったから、これらの技術は朝廷のもの」という姿勢が朝廷には必要だったと思うのです。だからこれらの管理を大和朝廷がする権利がある、と。だから公式に伝わったのはコレコレこういう正式な手続きがあってのことなんだと主張したい、そういう都合があったと思います。
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