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応神天皇(十七)木羅斤資を天朝が呼び寄せる
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廿五年、百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執国政、與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其国婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我国。往還貴国、承制天朝、執我国政、權重當世。然天朝聞其暴召之。」
現代語訳
(即位25年)に百済の直支王(トキオウ)が亡くなりました。すぐに子供の久爾辛(クニシン)が王になりました。王は年が若く木滿致(モクマンチ)が国の政治を行いました。(木滿致は)王の母と愛人関係にあって、非常に無礼でした。天皇はそれを聞いて呼び寄せました。
百済記によると、木滿致(モクマンチ)は木羅斤資(モクラコンシ)は新羅を討ったときにその国の女を娶って生まれた子といいます。父の功績があったので任那に専任しました。我が国(=ここでは百済)に来て、貴国(カシコキクニ=日本)に行って帰って来ました。制(ノリ=法律とか国を治めるシステム)を天朝(ミカド=大和朝廷)から承り、我が国(=百済)の政治を行いました。権力が強かったです。しかし天朝(ミカド=大和朝廷)はその暴政を聞いて呼び寄せた、といいます。
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解説
木羅斤資(モクラコンシ)
木羅斤資(モクラコンシ)は神功皇后(三十三)比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定、神功皇后(三十四)常に西蕃と称し、春秋には朝貢しましょう、神功皇后(三十九)沙至比跪と美女、その死の経緯、で登場しています。
木羅斤資は神功皇后が朝鮮征伐をした後に新羅を本格的にやるこめる段階で登場しています。この人物は話の流れから考えると朝鮮南部の「加羅国」の出身かと思われるのですが、日本書紀の写本のいくつかには「大倭木滿致」と書かれているので、日本人であり、「大倭」という尊称が乗っかるということは、天皇家の先祖という認識があったのではないか?とも。
木羅斤資(モクラコンシ)は神功皇后(三十三)比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定、神功皇后(三十四)常に西蕃と称し、春秋には朝貢しましょう、神功皇后(三十九)沙至比跪と美女、その死の経緯、で登場しています。
木羅斤資は神功皇后が朝鮮征伐をした後に新羅を本格的にやるこめる段階で登場しています。この人物は話の流れから考えると朝鮮南部の「加羅国」の出身かと思われるのですが、日本書紀の写本のいくつかには「大倭木滿致」と書かれているので、日本人であり、「大倭」という尊称が乗っかるということは、天皇家の先祖という認識があったのではないか?とも。
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- Page15 応神天皇(十五)兄媛は父母を思い嘆く
- Page16 応神天皇(十六)兄媛の兄の御友別の子孫と兄弟を吉備国に封じる
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- Page18 応神天皇(十八)高麗の王は日本国に教える、でブチ切れる
- Page19 応神天皇(十九)枯野船から500籠の塩を作り
- Page20 応神天皇(二十)猪名部の始祖と琴のナヅノキのような音
- Page21 応神天皇(二十一)阿知使主・都加使主を呉へと派遣して縫工女を求める
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