スポンサードリンク
応神天皇(二十二)新齊都媛は7人の婦女を率いて来帰
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
卅九年春二月、百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。爰新齊都媛、率七婦女而來歸焉。
現代語訳
即位39年春2月に百済の直支王(トキオウ)はその妹の新齊都媛(シセツヒメ)を派遣して(日本に)仕えさせました。新齊都媛(シセツヒメ)は7人の婦女を率いて来帰(マウケ)しました。
解説
直支王(トキオウ)は応神天皇が命じて百済の王になった人物ですが即位25年の「応神天皇(十七)木羅斤資を天朝が呼び寄せる」で死んでいるハズなのです。それが即位39年のこのページで突然、再登場。これは単に「死んだ前王の妹が日本に帰化した」という意味なのか、勘違いか、写し間違いか。
中国の歴史書「宋書」には「元嘉7年(430年)に「余(徐)毗(毗有王)に余映(徐映)(腆支王)の爵号の継承を許した」という記述があることから、もしかすると百済20代王の「毗有王」と百済18代王の「腆支王(=日本書紀での直支王)」が「同一の名前」を持っていたか、そういう認識があったのかもしれないです。それでこのページのような記述になったのではないかと。
中国の歴史書「宋書」には「元嘉7年(430年)に「余(徐)毗(毗有王)に余映(徐映)(腆支王)の爵号の継承を許した」という記述があることから、もしかすると百済20代王の「毗有王」と百済18代王の「腆支王(=日本書紀での直支王)」が「同一の名前」を持っていたか、そういう認識があったのかもしれないです。それでこのページのような記述になったのではないかと。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
応神天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page18 応神天皇(十八)高麗の王は日本国に教える、でブチ切れる
- Page19 応神天皇(十九)枯野船から500籠の塩を作り
- Page20 応神天皇(二十)猪名部の始祖と琴のナヅノキのような音
- Page21 応神天皇(二十一)阿知使主・都加使主を呉へと派遣して縫工女を求める
- Page22 応神天皇(二十二)新齊都媛は7人の婦女を率いて来帰
- Page23 応神天皇(二十三)年長者と年少者ではどちらがより愛おしいか?
- Page24 応神天皇(二十四)山川林野と太子の輔け
- Page25 応神天皇(二十五)崩御と阿知使主の帰国
スポンサードリンク