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天だむ 軽の乙女 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山 鳩の下泣きに泣く
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かく歌い參い歸りて白さく、「我が天皇の御子、伊呂兄の王に兵及ること無かれ。若し兵及らば、必ず人咲わん。僕が捕え以ちて貢進らん」。爾くして兵を解きて退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の輕の太子を捕えて率て參い出で、以ちて貢進りき。其の太子捕えられて歌いて曰く、
阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久
また歌いて曰く、
阿麻陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母
阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久
また歌いて曰く、
阿麻陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母
現代語訳
(大前小前宿禰が)そう歌って参って来て言いました。
「我が天皇の御子よ(穴穂王のこと)。伊呂兄(イロエ=同腹の兄=軽太子)の王(ミコ)に兵をやってはいけません。そんなことをすれば人は咲(ワラ=笑)うでしょう。僕(ヤツガレ=自分を指す)が(木梨軽王を)捕えて差し出しましょう」
それで(穴穂王は)兵を解いて退きました。それで大前小前宿禰(オオマエオマエノスクネ)は軽太子(カルノヒツギノミコ)を捕えて連れて参り出て差し出しました。その太子は捕えられて歌いました。
天(アマ)だむ 軽(カル)の乙女(オトメ) 甚(イタ)泣かば 人知りぬべし 波佐の山 鳩の 下(シタ)泣きに泣く
また歌って言いました。
天だむ 軽乙女 したため 寄り寝て通れ 軽乙女ども
「我が天皇の御子よ(穴穂王のこと)。伊呂兄(イロエ=同腹の兄=軽太子)の王(ミコ)に兵をやってはいけません。そんなことをすれば人は咲(ワラ=笑)うでしょう。僕(ヤツガレ=自分を指す)が(木梨軽王を)捕えて差し出しましょう」
それで(穴穂王は)兵を解いて退きました。それで大前小前宿禰(オオマエオマエノスクネ)は軽太子(カルノヒツギノミコ)を捕えて連れて参り出て差し出しました。その太子は捕えられて歌いました。
天(アマ)だむ 軽(カル)の乙女(オトメ) 甚(イタ)泣かば 人知りぬべし 波佐の山 鳩の 下(シタ)泣きに泣く
歌の訳(「あまだむ」は「軽」の枕詞だが詳細は不明)軽の乙女よ。ひどく泣いていると、人に二人の仲を知られてしまうよ。だから波佐(ハサ=地名だが未詳)の山の鳩のように、忍び泣いて泣くよ。
また歌って言いました。
天だむ 軽乙女 したため 寄り寝て通れ 軽乙女ども
歌の訳(「あまだむ」は軽の枕詞)軽の乙女よ。したため(下に下に…で静かにこっそりという意味、もしくは「しっかりと」という強い意味に撮る場合もある)に、寄り添って寝てから行けよ。軽の乙女たちよ。
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解説
天(アマ)だむ 軽(カル)の乙女(オトメ) 甚(イタ)泣かば 人知りぬべし はさの山 鳩の 下(シタ)泣きに泣く
前後の物語から言うと、軽太子と妹である軽大郎女の悲恋を歌ったもの、ということになるのですが、この歌はもちろんこの物語のために作られたものではなく、もともとあった歌を古事記の物語に当てはめたわけです。だから「軽」というのは「地名」です。具体的には軽池(奈良県橿原市)を指しています。
次の
天だむ 軽乙女 したため 寄り寝て通れ 軽乙女ども
で最後に「乙女ども」と複数の人物を指しているのは、この歌が物語とは全く関係のない歌だったためです。
前後の物語から言うと、軽太子と妹である軽大郎女の悲恋を歌ったもの、ということになるのですが、この歌はもちろんこの物語のために作られたものではなく、もともとあった歌を古事記の物語に当てはめたわけです。だから「軽」というのは「地名」です。具体的には軽池(奈良県橿原市)を指しています。
次の
天だむ 軽乙女 したため 寄り寝て通れ 軽乙女ども
で最後に「乙女ども」と複数の人物を指しているのは、この歌が物語とは全く関係のない歌だったためです。
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- Page4 あしひきの 山田を作り 山高み
- Page5 大前小前宿禰が 金門陰 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ
- Page6 天だむ 軽の乙女 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山 鳩の下泣きに泣く
- Page7 大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ
- Page8 こもりくの 泊瀬の山の 大峰には 旗張り立て
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