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味白檮の言八十禍津日の前に玖訶瓰を置いて
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ここに天皇、天の下の氏氏名名の人等の氏姓の忤い過れるを愁えて、味白檮の言八十禍津日の前に玖訶瓰を居えて【玖訶の二字音はを以ちてす】天の下の八十友の緒の氏姓を定め賜いき。また木梨の輕の太子の御名代と爲て輕部を定め、大后の御名代と爲て刑部を定め、大后の弟、田井中比賣の御名代と爲て河部を定めき。
天皇の御年は漆拾捌歳【甲午の年の正月十五日に崩りき】。御陵は河内の惠賀の長枝に在り。
天皇の御年は漆拾捌歳【甲午の年の正月十五日に崩りき】。御陵は河内の惠賀の長枝に在り。
現代語訳
允恭天皇は天下の氏族の人たちの氏姓(ウジカバネ)が誤っていることを憂い、味白檮(アマカシ=奈良県高市郡明日香村の甘橿丘【アマカシノオカ】)の言八十禍津日(コトヤソマガツヒ)の前に玖訶瓰(クカヘ=クカタチのための釜)を置いて、天下のたくさんの友緒(トモノオ=部民を率いる族長)の氏姓を定めました。木梨軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)の御名代(ミナシロ=名を引き継ぐための領地)として軽部(カルベ)を定め、大后の御名代(ミナシロ)として刑部(オサカベ)を定め、大后の弟の田井中比売(タイノナカツヒメ)の御名代として河部(カワベ)を定めました。
允恭天皇は78歳で亡くなりました。甲午(キノエノウマ)の歳の正月15日に崩御しました。御陵は河内国惠賀長枝(カワチノクニノエガノナガエ=大阪府藤井寺市?)にあります。
允恭天皇は78歳で亡くなりました。甲午(キノエノウマ)の歳の正月15日に崩御しました。御陵は河内国惠賀長枝(カワチノクニノエガノナガエ=大阪府藤井寺市?)にあります。
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解説
応神天皇の記述の多さに反して、履中天皇・反正天皇・允恭天皇の記述の少ないこと。允恭天皇はこのページを持って崩御して、安康天皇に引き継ぐ経緯が語られることになります。いかに允恭天皇までが平和で、これ以降の時代が乱れていたか、ということです。
氏と姓
氏姓は自身の出自を表すものです。氏は出身。姓はその位。これが曖昧になってくると世の中は乱れます。というのも当時の大和朝廷が儒教の考えに基づいていたからです。
儒教では自分と先祖は「同一体」という考えがあります。つまり先祖が偉い人は偉いです。またその子孫も偉い。よって氏姓があやふやになるのは社会が混乱する元です。
そこでその氏姓を言八十禍津日(コトヤソマガツヒ)という嘘を見抜いて罰する神様に伺いを立てることにしました。お湯を釜で沸かしてそこに手を突っ込んで火傷したら「嘘」、火傷しなかったら「正しい」というものです。これを「盟神探湯(クカタチ)」と言い、その「盟神探湯(クカタチ)」に使う釜を「クカヘ」と言います。これをして「偽物氏族」を落としていった。
理屈はおかしくないですが、これは允恭天皇による、氏族のふるい落としです。允恭天皇は葛城氏側です。自分の味方の氏族(葛城氏)は落とさず、それ以外の氏族を落として敵対勢力を削ごうとしたのでしょう。その結果、反感を買い、子供の安康天皇は暗殺され、安康天皇の暗殺の容疑者誅殺という名目で雄略天皇により葛城氏の勢力は一掃されることになります。この流れの中に氏族のふるい落としがあったのでしょう。
氏と姓
氏姓は自身の出自を表すものです。氏は出身。姓はその位。これが曖昧になってくると世の中は乱れます。というのも当時の大和朝廷が儒教の考えに基づいていたからです。
儒教では自分と先祖は「同一体」という考えがあります。つまり先祖が偉い人は偉いです。またその子孫も偉い。よって氏姓があやふやになるのは社会が混乱する元です。
そこでその氏姓を言八十禍津日(コトヤソマガツヒ)という嘘を見抜いて罰する神様に伺いを立てることにしました。お湯を釜で沸かしてそこに手を突っ込んで火傷したら「嘘」、火傷しなかったら「正しい」というものです。これを「盟神探湯(クカタチ)」と言い、その「盟神探湯(クカタチ)」に使う釜を「クカヘ」と言います。これをして「偽物氏族」を落としていった。
理屈はおかしくないですが、これは允恭天皇による、氏族のふるい落としです。允恭天皇は葛城氏側です。自分の味方の氏族(葛城氏)は落とさず、それ以外の氏族を落として敵対勢力を削ごうとしたのでしょう。その結果、反感を買い、子供の安康天皇は暗殺され、安康天皇の暗殺の容疑者誅殺という名目で雄略天皇により葛城氏の勢力は一掃されることになります。この流れの中に氏族のふるい落としがあったのでしょう。
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允恭天皇(古事記)の表紙へ
- Page1 允恭天皇の皇后・妃と子息子女
- Page2 長いこと患っている病気があるので日嗣を継承することは出来ないのです
- Page3 味白檮の言八十禍津日の前に玖訶瓰を置いて
- Page4 あしひきの 山田を作り 山高み
- Page5 大前小前宿禰が 金門陰 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ
- Page6 天だむ 軽の乙女 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山 鳩の下泣きに泣く
- Page7 大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ
- Page8 こもりくの 泊瀬の山の 大峰には 旗張り立て
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