田狭の妻の稚媛の美しさ

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雄略天皇(二十三)田狭の妻の稚媛の美しさ

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原文

是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那国司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彦子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

現代語訳

(即位7年)この年、吉備上道臣田狹(キビノカミツミチノオミタサ)は殿(オオトノ=天皇)の側にいて、稚媛(ワカヒメ)を盟友(トモ)に褒めて言いました。
「天下の麗人(カオヨキヒト=美人)はわたしの婦(メ)に叶う者はいない、茂(コマヤカ)で綽(キハヤカ=際立って)で、諸々の好いところを備えている。曄(アカラカ=輝いている)に温厚で種々(クサグサ)のものが足りていた。鉛花(イロ=白粉【オシロイ】のこと)で繕うこともしないで、蘭沢(カ)を加えることもしない。長い世にも罕儔(タグイマレ)だ。この時代では独り秀れた者だ」
天皇はその話に耳を傾けて、遥か離れたところから聞いて、喜んでいました。すぐに自ら稚媛に求婚して、女御(ミメ)にしようとも居ました。田狭(タセ)に拝(コトヨサ)して、任那国司(ミマナノクニノミコトモチ)にしました。しばらくして天皇は稚媛を幸(メ)しました。田狭臣は稚媛を娶って兄君・弟君を生みました。
別の本によると、田狭臣の婦の名は毛媛(ケヒメ)といいます。葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)の子の玉田宿禰(タマダノスクネ)の娘です。天皇は体貌閑麗(ミナキラギラシ=姿が美しい)と聞いて、夫を殺して自らが幸(ツカワ)しました。
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解説

嫁自慢が呼ぶ悲劇
嫁が綺麗だと褒めていたら、それを聞いた天皇に任那に左遷させられ、嫁を奪われるという話。酷いなぁ、と思うのですが、史実なのやら。
他人の妻を取る話安康天皇が殺された原因というのが、政敵だった大草加皇子を殺害してその妻を中蒂姫命を娶ったことで、大草香皇子と中蒂姫命の間の子の眉輪王に殺されたのですね。

ここで田狭は酷い目に遭っている、ような気がしますが、任那に行かされる命令が「拝」で表現されています。また稚媛を娶る表現が「幸」で表現されています。

「幸」という文字は「サチ」という意味で、天皇が移動するときに「幸」で表現します。これは天皇に穀物神を宿して地域に移動することで、土地に「幸(サチ)」がもたらされることからです。ということは稚媛が天皇に嫁に行くことが「幸」と表現されるということは「宗教」的な意味があったんじゃないか?と。

ちなみに、この後、田狭は新羅と結託して反乱するのです。
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