石鬼

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石鬼

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概要

忌宮神社(下関市)の境内にある石。
行ったら、境内の中に急に「鬼石」があり、看板があります。
ちなみに忌宮神社(下関市)仲哀天皇が政治を行った豊浦宮であり、仲哀天皇の死後に安置された場所でもあります。
まとめ
忌宮神社(下関市)の境内にある石。
●忌宮神社は仲哀天皇の皇居、豊浦宮があった。
●また、仲哀天皇の死後、殯(モガリ)をした場所でもあった。
新羅の塵輪という鬼が、豊浦宮を襲い、人を殺したが、仲哀天皇が弓矢で打ち落とした。
●その塵輪の首を埋めて、石で塞いだのが「鬼石」。
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物語・由来

仲哀天皇と塵輪
仲哀天皇7年の7月。熊襲(クマソ)の平定のために豊浦宮を仮の宮として、皇居としていました。すると新羅の国の塵輪(ジンリン)が、熊襲を先導して豊浦宮を襲撃。塵輪は黒雲に乗る悪鬼で、空を飛びます。安倍高麿・助麿の兄弟が死に、怒った仲哀天皇は自ら弓をとって塵輪(ジンリン)を打ち落としました。

皇軍は歓喜し、矛をかざし、旗を振りながら、屍の周りを踊りました。その塵輪の首を切って、大きな石で塞ぎました。その石が「鬼石」です。

この塵輪の話は日本書紀にはありません。忌宮神社(下関市)の社伝や、大山祇神社の社殿に残っています。
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考えてみる

よく考えると、鳥居・鬼石・本殿が一直線に並んでいます。この鬼石は仲哀天皇に討伐された新羅の鬼の塵輪(ジンリン)とされるのですが、ちょっと違うんじゃないかと。

もともとは、この石は信仰対象だったんじゃないかと思うのです。こんなところに鎮座しているのは、死体を封じ込めるためというのは無理があるでしょう。ただ、日本人は伝統的に「死者の祟り」を恐れるのですから、塵輪の死霊を押さえ込んだとしても不思議ではないのですが、この位置はおかしい。

そもそも、この忌宮神社の土地、つまり豊浦の土地自体が神聖なものだった。神聖だからこそ、仲哀天皇は宮を作った。そこにはもともと、何かの信仰があって、その本体か、象徴的なものが「石」だった。
香取神宮鹿島神宮にも、要石が埋まっていますよね。
吉備津神社(岡山市)には矢置岩ってのがあります。

日本人の性質上、信仰の中心が、石から天皇に移ったとしても、石は捨てられません。祟りがあるかもしれないからです。だから、石が残り、そして、そこに物語が付与された。

物語自体は、ある程度の史実だと思います。実際に、戦争があって、人が死に、敵を打ち破った。ただ、その相手が実際に新羅の人物かどうかは正直疑問ですね。桃太郎伝説で有名な吉備津彦神社の物語でも「百済の鬼の温羅」が悪さをして、大和朝廷から派遣された「吉備津彦(=五十狭斧彦命【イセサリヒコ命】)に退治されます。当時、朝鮮のイメージが悪かったんじゃないかと思うのです。それで悪役に抜擢されやすかった。それはもちろん実際に素行が悪かったからでしょう。
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