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天武天皇(四十五)漁猟者の制約・肉食の禁止
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庚寅、詔諸国曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。
現代語訳
(即位4年)4月17日。諸国に詔(ミコトノリ)して言いました。
「今から以後、諸々の漁猟者(スナドリカリスルヒト)は、檻穽(オリシシアナ=檻と獣の落とし穴)を作り、機槍(フミハナチ=槍が飛び出る機械?)のような類を設置することが無いように。
また、4月1日以後、9月30日以前に比彌沙伎理(ヒミサキリ?)・梁(ヤナ)を置いてはいけない。また、牛・馬・犬・猿・鶏の宍(シシ=肉)を食べてはいけない。それ以外は禁止しない。もし犯すことがあれば、罪を問う」
4月18日。三位の麻続王(オミノオオキミ)に罪がありました。因幡に流罪としました。一人の子を伊豆嶋(イズノシマ)に流罪としました。一人の子を血鹿嶋(チカノシマ=長崎県五島列島)に流罪としました。
4月23日。諸々の才芸のある者を選んで、禄(ロク)を与えました。それぞれに品がありました。
この月に新羅の王子の忠元(チュウガン)は難波に到着しました。
「今から以後、諸々の漁猟者(スナドリカリスルヒト)は、檻穽(オリシシアナ=檻と獣の落とし穴)を作り、機槍(フミハナチ=槍が飛び出る機械?)のような類を設置することが無いように。
また、4月1日以後、9月30日以前に比彌沙伎理(ヒミサキリ?)・梁(ヤナ)を置いてはいけない。また、牛・馬・犬・猿・鶏の宍(シシ=肉)を食べてはいけない。それ以外は禁止しない。もし犯すことがあれば、罪を問う」
4月18日。三位の麻続王(オミノオオキミ)に罪がありました。因幡に流罪としました。一人の子を伊豆嶋(イズノシマ)に流罪としました。一人の子を血鹿嶋(チカノシマ=長崎県五島列島)に流罪としました。
4月23日。諸々の才芸のある者を選んで、禄(ロク)を与えました。それぞれに品がありました。
この月に新羅の王子の忠元(チュウガン)は難波に到着しました。
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解説
肉食を禁止
動物を殺すような罠を禁止し、肉食を禁止しています。牛や馬や犬や猿と鶏が禁止。ということは、キジやスズメやイノシシや鹿は食べてよかったのでしょうか。
難しい話なんですよね。鹿や猪ってのは、害獣なんですよ。そういうものまで「禁止」するのでしょうか?
おそらく「日本人」は、この詔以前からも、肉は食べてなかったと思います。ですが、この当時の日本は蝦夷の狩猟文化を持った人もたくさんいたはずです。よって完全な「肉食禁止」は無理だった。それに蝦夷が鹿や猪を食べるのは、日本の文化から見て「野蛮」ではありつつも、害獣駆除には欠かせないものだったと思います。
蝦夷は野蛮ではある。だが、野蛮だからこそ害獣駆除に非常に重宝した。そこに日本が蝦夷を取り込んでいく…というか蝦夷の狩猟文化を必要とした背景があったのでしょう。
そこで肉食をある程度、許可しつつも、蝦夷が度を超えた肉食をするのは禁止しなくてはいけない。お腹が空いたからって、牛や馬は食べちゃいけない。その折衷案が、この詔だった。牛と馬と犬と猿と鶏は食べちゃいけないが、鹿と猪といったものは食べて良い。そういうルールを作った。このルールを作ったというのは、こういう言い方もできます。
「蝦夷を日本人として認めている」
正直な話、日本人が肉食をすれば、地域の中で白い目で見られます。だから詔をするまでもない。こうして詔をして、「食べて良いもの」「食べちゃいけないもの」を分けて発表したのは、蝦夷を日本の住民として、上下をつけずに「同じ国民」として認めたから、じゃないかと思うのです。
蝦夷を仲間ではなく、あくまで異文化異民族として見るならば、詔に「蝦夷は」と書けば済むことです。そう書かないってことは、そういう「仲間なんだぜ」という宣言なんじゃないかと。これは案外とすごい詔なんじゃないかと思います。まぁ、かなり推測なんですけど。
動物を殺すような罠を禁止し、肉食を禁止しています。牛や馬や犬や猿と鶏が禁止。ということは、キジやスズメやイノシシや鹿は食べてよかったのでしょうか。
難しい話なんですよね。鹿や猪ってのは、害獣なんですよ。そういうものまで「禁止」するのでしょうか?
おそらく「日本人」は、この詔以前からも、肉は食べてなかったと思います。ですが、この当時の日本は蝦夷の狩猟文化を持った人もたくさんいたはずです。よって完全な「肉食禁止」は無理だった。それに蝦夷が鹿や猪を食べるのは、日本の文化から見て「野蛮」ではありつつも、害獣駆除には欠かせないものだったと思います。
蝦夷は野蛮ではある。だが、野蛮だからこそ害獣駆除に非常に重宝した。そこに日本が蝦夷を取り込んでいく…というか蝦夷の狩猟文化を必要とした背景があったのでしょう。
そこで肉食をある程度、許可しつつも、蝦夷が度を超えた肉食をするのは禁止しなくてはいけない。お腹が空いたからって、牛や馬は食べちゃいけない。その折衷案が、この詔だった。牛と馬と犬と猿と鶏は食べちゃいけないが、鹿と猪といったものは食べて良い。そういうルールを作った。このルールを作ったというのは、こういう言い方もできます。
「蝦夷を日本人として認めている」
正直な話、日本人が肉食をすれば、地域の中で白い目で見られます。だから詔をするまでもない。こうして詔をして、「食べて良いもの」「食べちゃいけないもの」を分けて発表したのは、蝦夷を日本の住民として、上下をつけずに「同じ国民」として認めたから、じゃないかと思うのです。
蝦夷を仲間ではなく、あくまで異文化異民族として見るならば、詔に「蝦夷は」と書けば済むことです。そう書かないってことは、そういう「仲間なんだぜ」という宣言なんじゃないかと。これは案外とすごい詔なんじゃないかと思います。まぁ、かなり推測なんですけど。
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