天武天皇(五十五)屋垣王を土佐に流す・新嘗の斎忌と次

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天武天皇(五十五)屋垣王を土佐に流す・新嘗の斎忌と次

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原文

九月丙寅朔、雨、不告朔。乙亥、王卿遣京及畿內、校人別兵。丁丑、筑紫大宰三位屋垣王、有罪流于土左。戊寅、百寮人及諸蕃人等、賜祿各有差。丙戌、神官奏曰「爲新嘗、卜国郡也。齋忌(齋忌此云踰既)則尾張国山田郡、次(次此云須伎)也丹波国訶沙郡、並食卜。」是月、坂田公雷、卒。以壬申年功、贈大紫位。

現代語訳

(即位5年)9月1日。雨が降って、告朔(ツイタチモウシ)をしませんでした。
9月10日。王卿(オオキミマヘツキミタチ=皇族と臣下たち)を京(ミヤコ)と畿内(ウチツクニ)に派遣して、人ごとの兵(ツワモノ=兵器)を検校させました。
9月12日。筑紫の太宰の三位の屋垣王(ヤカキノオオキミ)は罪があり、土左(トサノクニ=土佐)に流しました。
9月13日。百寮(ツカサツカサ=官僚)の人と諸藩(トナリノクニ)の人たちに、禄(モノ)を与えました。それぞれに品がありました。
9月21日。神官(カムツカサ)が申し上げて言いました。
「新嘗(ニイナエ)のために国郡(クニコオリ)を占わせました。斎忌(ユキ)…
斎忌は踰既(ユキ)と読みます。

は尾張国の山田郡、次(スキ)…
次は須伎(スキ)と言います。

は丹波国の訶沙郡(カサノコオリ)、が占いで当たりました。
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解説

告朔
月の初めに天皇が朝廷のお堂で、前の月の公式な文章を見る儀式。中国の制度を踏襲しています。告朔の記述はここが初めて。記述は初めてなんですが、「雨が降ったからやめた」とある以上は、これ以前からやっていたと考えた方が自然ですよね。
斎忌と次
ユキは新嘗祭で、捧げられるもの。具体的には稲や粟。この稲や粟をどこの地域が提出するかを占いで決めた。それが2国(2地方)を定められて、1番目がユキで、2番目がスキ。スキは「次」という意味。

しかし、こんな言葉はこれまで出てこなかったわけで、これ以前にもやっていたのかは不明。いや、新嘗はやっていますよ。でも、この制度があったのかはよく分からない。記述がないだけでこれ以前からやっていても全然不思議じゃないですよ。
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