天武天皇(五十二)栗隈王と物部雄君連の死・干ばつとその対応

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天武天皇(五十二)栗隈王と物部雄君連の死・干ばつとその対応

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原文

六月、四位栗隈王、得病薨。物部雄君連、忽發病而卒。天皇、聞之大驚。其壬申年、從車駕入東国、以有大功、降恩贈內大紫位、因賜氏上。是夏、大旱。遣使四方、以捧幣帛祈諸神祗、亦請諸僧尼祈于三寶。然不雨、由是五穀不登、百姓飢之。

現代語訳

(即位5年)6月。四位の栗隈王(クルクマノオオキミ)は病気になり、亡くなりました。
物部雄君連(モノノベノオキミノムラジ)は病気になり亡くなりました。天皇は聞いてとても驚きました。あの壬申の年に、従車駕(オオミトモニツカエマツリ=天皇が乗る車に従い)して、東国に入り、大きな功績を挙げて、恩寵を貰い、内大紫位(ウチノダイシノクライ)を贈りました。氏上(ウジノコノカミ=氏族の代表)となりました。
この夏、強い干ばつがありました。使者を四方に派遣して、幣帛(ミテグラ=神に捧げる供物)を捧げて、諸々の神祇(カミガミ)に祈らせました。また、諸々の僧尼(ホウシアマ)に請願して、三宝(サンポウ=仏・法・僧のこと)に祈らせました。しかし雨は降りませんでした。それで五穀が実りませんでした。百姓は飢えました。
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解説

栗隈王
栗隈王は壬申の乱の時に、近江王朝に協力を要請されたのですが、九州の守護を優先して、近江王朝に協力せず、中立を保ったとされる人物。「大海人皇子に仕えていた」という記述がありますから、中立というよりは、大海人皇子よりの立場だったと思われます。

物部雄君連
物部雄君連は壬申の乱のときに、大海人皇子に最初から付いていた人物。舎人であり、身分は決して高くなかった。それが死後とはいえ大紫という高い地位についたのは、壬申の乱の功績があればこそ。ただし戦争で活躍したという記述はありません。ま、大海人皇子はかなり信用していたのでしょう。
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