持統天皇(五十一)漢人と唐人の蹈歌・大唐の七人と肅愼の二人

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持統天皇(五十一)漢人と唐人の蹈歌・大唐の七人と肅愼の二人

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原文

八年春正月乙酉朔丙戌、以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行、増封人二百戸、通前五百戸、並爲氏上。辛卯、饗公卿等。己亥、進御薪。庚子、饗百官人等。辛丑、漢人奏蹈歌、五位以上射。壬寅、六位以下射、四日而畢。癸卯、唐人奏蹈歌。乙巳、幸藤原宮、卽日還宮。丁未、以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。戊申、幸吉野宮。

現代語訳

即位8年。春1月2日。正広肆を直大壱の布勢朝臣御主人(フセノアソミミヌシ)と大伴宿禰御行(オオトモノスクネミユキ)とに授けました。封(ヘヒト)を一人当たり200戸を増やしました。以前と通すと500戸です。一緒に、氏上(ウジノコノカミ)としました。
1月7日。公卿(マヘツキミ=臣下)たちに宴会を催しました。
1月15日。御薪(ミカマギ)を献上しました。
1月16日。百官(ツカサツカサ=役人)の人たちに宴会を催しました。
1月17日。漢人(アヤヒト)は蹈歌(アラレハシリ=足を踏み鳴らして歌う歌)を奏じました。五位以上の人で弓を射る儀式をしました。
1月18日。六位より下の人で弓を射る儀式をしました。4日で終わりました。
1月19日。唐人(モロコシビト)は蹈歌(アラレハシリ=足を踏み鳴らして歌う歌)を奏じました。
1月21日。持統天皇は藤原宮に行きました。その日に宮に帰りました。
1月23日。務広肆の位を、大唐の七人と肅愼(ミシハセビト=蝦夷の一緒か中国東北異民族)の二人に授けました。
1月24日。持統天皇は吉野宮に行きました。
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解説

蹈歌
足を踏み鳴らして歌う伝統的なもの。持統天皇の時代に突然現れています。もちろん、記述が持統天皇の時代が初めてだからといって、それ以前には無かったとは限らないのですけど。

それでここでは漢人と唐人が蹈歌を奏じたとあります。唐人は「中国人」でしょう。ここでいう中国人ってのは、今現在も中国人(唐)って意味です。漢人は「中国出身の氏族」ということじゃないか?と思われます。つまり漢人は長く日本に住んでいて、中国の伝統舞踊(蹈歌)が家に伝わっているってことです。

そもそも「漢人」ってのは漢民族という意味で、「唐人」ってのは唐から来た人って意味でしょうね。では、当時の日本人には唐とそれ以前の中国では「文化が違う」「民族が違う」みたいな認識があったのでしょうか。
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