持統天皇(六十一)後皇子尊…高市皇子の死

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持統天皇(六十一)後皇子尊…高市皇子の死

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原文

六月辛未朔戊子、幸吉野宮。丙申、至自吉野。秋七月辛丑朔、日有蝕之。壬寅、赦罪人。戊申、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。庚戌、後皇子尊薨。八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。

現代語訳

(即位10年)
6月18日。持統天皇は吉野宮へ行きました。
6月26日。吉野から帰りました。

秋7月1日。日蝕がありました。
7月2日。罪人を赦しました。

7月8日。使者を派遣して広瀬大忌神と竜田風神を祀らせました。
7月10日。後皇子尊(ノチノミコノミコト=高市皇子の事)が亡くなりました。

8月25日。直広壱を多臣品治(オオノオミホムジ)に授けました。合わせて物を与えました。初めから従った功績と固く関を守ったことを褒めたと言います。
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解説

関を守った
多臣品治は美濃で兵を起こして、不破道を塞ぎました。これは天武天皇側にとってかなり大きな意味があることでした。乱の中では初期のことですが、完全絶対不利な天武天皇が徐々に形勢を逆転できたのは、不破道を塞ぐことができたことが大きいです。

後皇子尊
持統天皇の息子である草壁皇子が「皇子尊」と呼ばれていたのに対して、後に執務を取った高市皇子は「後皇子尊」と呼ばれていました(万葉集の柿本人麻呂の歌にある)。高市皇子が死んだことで皇位継承は大変な問題に。

しかし「後皇子尊」と呼んでいたとなると、高市皇子が次の天皇に成ってもおかしくなかったのでしょう。ただ亡くなったのが696年で壬申の乱が672年。高市皇子は壬申の乱の時に何歳かはわかりませんが、兵を率いて活躍しているところを見ると幼年とは思えない。そもそも天武天皇がかなり高齢ですからね。高市皇子の死亡時の年齢が50代以下ってことは無いでしょう。もしかすると60代でも自然。

「後皇子尊」と呼ばれていても「現実に即位」となると、そこまでの認識はなかったのかな?とも思います。

ところで大津皇子が持統天皇の政略で自殺に追い込まれたのならば、高市皇子も持統天皇によって暗殺されたということもあったんじゃないかなと思いますね。この高市皇子の死の結果、次の文武天皇に譲位されるのですから。
次の皇太子へ
高市皇子の死を受けて、次の文武天皇となる軽皇子の教育が始まります。
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