持統天皇の行幸の一覧

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持統天皇の行幸の一覧

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概要

まとめ
●持統天皇の行幸43回のうち31回が吉野宮行き。

吉野行き31回

持統天皇は行幸(天皇が移動すること)を43回しています。
そのうち31回が吉野宮ですから、これは異常な数字でしょう。
吉野は天武天皇が壬申の乱を始める最初の土地ですから、この土地には、夫である天武天皇との思い出とともに、天武天皇という偉大な天皇の「威光」があったわけです。だから吉野へ行くことで、天武天皇の威光をもらい、政治の運営を円滑に行おうとしていたという意見もあります。

私としては、吉野に行くことで天武天皇の威光を、というのは理屈では理解できてもこの頻度は理解できない。吉野に行くということは、宮を空けるってことです。それを臣下が見て、どう考えるでしょうか。

帝位11年の間に31回という、吉野行幸の頻度を考えると、吉野に「政治的な勢力があった」のではないかと思います。
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持統天皇の行幸のまとめ一覧

即位行き目的地帰り
3年1月18日吉野宮1月21日
8月4日吉野宮
10月11日高安城
4年2月17日吉野宮
5月3日吉野宮
6月6日泊瀬
8月4日吉野宮
9月13日紀伊9月24日
10月5日吉野宮
12月12日吉野宮12月14日
5年1月16日吉野宮1月23日
4月16日吉野宮4月22日
7月3日吉野宮7月12日
10月13日吉野宮10月20日
6年1月27日高宮1月28日
3月6日伊勢3月20日
5月12日吉野宮5月16日
6月30日藤原宮地
7月9日吉野宮7月28日
8月17日飛鳥皇女の田荘8月17日
10月12日吉野宮10月19日
7年3月6日吉野宮3月13日
5月1日吉野宮5月7日
7月7日吉野宮7月16日
8月1日藤原宮地
8月17日吉野宮8月21日
9月5日多武嶺9月6日
11月5日吉野宮11月10日
8年1月21日藤原宮1月21日
1月24日吉野宮
4月7日吉野宮4月14日?
9月4日吉野宮
12月6日藤原宮
9年閏2月8日吉野宮閏2月15日
3月12日吉野宮3月15日
6月18日吉野宮6月26日
8月24日吉野宮8月30日
10月11日吉隠10月12日
12月5日吉野宮12月13日
10年2月3日吉野宮2月13日
4月28日吉野宮5月4日
6月18日吉野宮6月26日
11年4月7日吉野宮4月7日
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引用

持統天皇(十二)脂利古の息子の麻呂と鉄折の出家・吉野宮へ行幸
即位3年1月18日。天皇は吉野宮に行きました。
1月21日。天皇は吉野宮から帰りました。

持統天皇(十八)武庫海と那耆野と身野を禁漁区に
即位3年8月4日。天皇は吉野宮(ヨシノノミヤ)に行きました。

持統天皇(二十)新城を見る・下毛野朝臣子麻呂は奴婢を免除・双六を禁じる
即位3年冬10月11日。天皇は高安城(タカヤスノキ)へ行きました。

持統天皇(二十二)京と畿内の80歳以上に稲を20束与える
即位4年2月17日。天皇は吉野宮に行きました

持統天皇(二十四)吉野宮へ行幸・内裏で安居講・位と年歯
即位4年5月3日。天皇は吉野宮に行きました。
6月6日。天皇は泊瀬に行きました

持統天皇(二十六)戸籍は戸令に依る・紀伊へ巡行するから京は税免除
即位4年8月4日。天皇は吉野宮(ヨシノノミヤ)に行きました。
9月13日。天皇は紀伊に行きました。
9月24日。天皇は紀伊から帰りました。

持統天皇(二十七)大伴部博麻は唐に独り30年残った
即位4年冬10月5日。天皇は吉野宮に行きました。

持統天皇(二十八)元嘉暦と儀鳳暦・藤原へ行幸
12月12日。天皇は吉野宮へ行きました。
12月14日。天皇は吉野宮から帰りました。
12月19日。天皇は藤原に行き、宮地を観ました。

持統天皇(二十九)百済王の余禅広に優を・皇子たちに封を・筑紫史益に賞与を
1月16日。天皇は吉野宮に行きました。
1月23日。天皇は吉野宮から帰りました。

持統天皇(三十一)祖の時に籍が除かれた奴婢の処遇
即位5年4月16日。天皇は吉野宮に行きました。
4月22日。天皇は吉野宮から帰りました。

持統天皇(三十二)陰雨が続くので酒宍を禁じ、お経を読ませる
即位5年秋7月3日。天皇は吉野宮に行きました。
7月12日。天皇は吉野から帰りました。

持統天皇(三十四)先皇の陵戸・長生地を置く・新益京を鎮める祭
即位5年10月13日。畿内と諸国に、長生地(イキハナツトコロ=殺生を禁じた土地?)を1000歩、設置しました。この日に天皇は吉野宮に行きました。
10月20日。天皇は吉野から帰りました。

持統天皇(三十六)天皇の伊勢への行幸を諌める三輪高市麻呂
即位6年1月27日。天皇は高宮(タカミヤ=大和国葛城郡の地名)に行きました。
1月28日。天皇は高宮から帰りました。

持統天皇(三十七)伊勢行幸
即位6年3月6日。天皇は諌めに従わず、ついに伊勢に行きました。
3月20日。車駕(スメラミコト)が宮に帰りました。

持統天皇(三十九)阿古志海部河瀬麻呂たちの免税・藤原の宮地を鎮め祭る
即位6年5月12日。吉野宮に行きました。
5月16日。車駕(スメラミコト=天皇が乗る車)が宮に帰りました。

持統天皇(四十一)直丁に官位・赤烏を捕らえた褒賞・熒惑と歲星
即位6年6月30日。天皇は藤原の宮地を観ました。
7月9日。吉野宮へ行きました。
7月28日。車駕(スメラミコト=天皇が乗る車)は宮に帰りました。

持統天皇(四十二)班田大夫の派遣・白蛾を角鹿郡で捕らえる
即位6年8月17日。飛鳥皇女(アスカノヒメミコ=天智天皇の娘)の田荘(ナリドコロ)に行きました。その日に宮に帰りました。

持統天皇(四十三)伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉る
即位6年10月12日。吉野宮に行きました。
10月19日。車駕(スメラミコト=天皇の乗る車)は宮に帰りました。

持統天皇(四十五)桑・紵・梨・栗・蕪菁を植えるよう勧める
即位7年3月6日。吉野宮へ行きました。
3月13日。天皇は吉野宮から帰りました。

持統天皇(四十七)無遮大会を内裏で・福嘉を俗に・雨乞い
即位7年5月1日。吉野宮へ行きました。
5月7日。天皇は吉野宮から帰りました。
秋7月7日。吉野宮へ行きました。
7月16日。大夫・謁者を派遣して、諸々の社に詣でて雨乞いしました。この日に天皇は吉野から帰りました。

持統天皇(四十八)多武嶺へ行幸・清御原天皇のために無遮大会
即位7年。8月1日。藤原の宮地に行きました。
8月17日。吉野宮へ行きました。
8月21日。車駕(スメラミコト=天皇の乗る車)が宮に帰りました。
9月5日。多武嶺(タムノミネ=奈良県桜井市の南にある山)に行きました。
9月6日。車駕(スメラミコト)が宮に帰りました。

持統天皇(五十)法員と善往と真義に近江国の益須郡の醴泉を飲ませる
即位7年11月5日。吉野宮に行きました。
11月10日。車駕(スメラミコト=天皇が乗る車)は宮に帰りました。

持統天皇(五十一)漢人と唐人の蹈歌・大唐の七人と肅愼の二人
即位8年1月21日。持統天皇は藤原宮に行きました。その日に宮に帰りました。
1月24日。持統天皇は吉野宮に行きました。

持統天皇(五十三)金光明経を毎年正月上弦に読みなさい
即位8年4月7日。持統天皇は吉野宮に行きました。
4月13日。使者を派遣して、広瀬大忌神と竜田風神を祀らせました。
丁亥(=4月には無い=丁卯の写し間違いだとすると4月14日)に吉野宮から帰りました。

持統天皇(五十五)白い蝙蝠を捕らえた弟国部弟日
即位8年9月4日。持統天皇は吉野宮に行きました。
12月6日。藤原宮に移って居住しました

持統天皇(五十六)文忌寸博勢と下訳語諸田を種子島で蛮族を探させる
閏2月8日。持統天皇は吉野宮に行きました。
2月15日。車駕(スメラミコト=天皇の乗る車)は宮に帰りました。
3月12日。持統天皇は吉野宮に行きました。
3月15日。天皇は吉野から帰りました。

持統天皇(五十八)80歳以上、および痼疾に賞を
即位9年6月18日。持統天皇は吉野宮に行きました。
6月26日。吉野から帰りました。

持統天皇(五十九)行獄徒繋を許し放つ・菟田の吉隠へ
即位9年8月24日。持統天皇は吉野に行きました。
8月30日。吉野から帰りました。
10月11日。持統天皇は菟田(ウダ)の吉隠(ヨナバリ=奈良県桜井市吉隠)に行きました。
10月12日。吉隠から帰りました。
12月5日。持統天皇は吉野宮に行きました。
12月13日。吉野から帰りました。

持統天皇(六十)二槻宮へ行幸
即位10年2月3日。持統天皇は吉野宮に行きました。
2月13日。吉野から帰りました。
4月28日。持統天皇は吉野宮に行きました。
5月4日。吉野から帰りました。

持統天皇(六十一)後皇子尊…高市皇子の死
即位10年6月18日。持統天皇は吉野宮へ行きました。
6月26日。吉野から帰りました。

持統天皇(六十三)東宮大傅と春宮大夫の任命・満選者に位を
即位11年4月7日。持統天皇は吉野宮に行きました。使者を派遣して広瀬と竜田を祀らせました。この日に吉野から帰りました。
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