囹圄に入れられ、貢物を奪われ

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神功皇后(三十一)囹圄に入れられ、貢物を奪われ

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現代語訳

即位47年の夏4月に百済の王は久氐(クテイ)・彌州流(ミツル)・莫古(マクコ)を使わして、朝貢(ミツキタテマツル)しました。この時に、新羅の国の調(ミツキ)の使者が久氐(クテイ)とともに詣でました。
それで皇太后(=神功皇后)と太子の譽田別尊(ホムタワケノミコト応神天皇)はとても喜んで言いました。
「先の王の所望した国の人が、今、朝廷に来た。残念なことは、天皇が存命の時に会えなかったことだ」
群臣(マヘツノキミ=臣下)は皆、悲しく思い、言うことはありませんでした。それで二つの国の貢物を検校(カゾ=数える)えました。すると新羅の貢物は珍異(メズラシイ)ものが多かった。百済の貢ぐものは少なくて賤しいもので、良くありませんでした。それで久氐(クテイ)らに問いました。
「百済の貢物は新羅に及ばないのはどうしてか?」
答えて言いました。
「私どもは、道を見失って、沙比新羅(サヒシラギ)に到着しました。すると新羅人はわたしたちを捕らえて、囹圄(ヒトヤ=牢獄)に閉じ込めてしまいました。三ヶ月経って、殺そうとしました。そのとき久氐(クテイ)たちは天に向かって呪詛(ノロイトゴフ)しました。新羅人はその呪いを恐れて、殺しませんでした。それで私の(=百済の)貢物を(新羅人が)奪ってしまいました。それで新羅人は自分の貢物としました。新羅の賤しいものと取り替えて、わたしの(=百済の)国の貢物としました。わたしたちに新羅人は言いました。
『このことを話せば、(日本から)帰った日に、お前たちを殺す』
それで久氐(クテイ)たち恐怖して従ったのです。それでやっと天朝(ミカド=日本)にやって来れたのです」
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解説

同様の記述がある
新羅は「垂仁天皇(二)皇后と皇子、任那の新羅への恨み」でも任那(ミマナ)の物品を奪い、同様に恨みを買っています。まだ現代語訳にしていませんが、応神天皇の14年には新羅人が百済から来た民を加羅で足止めしていると弓月君(ユヅキノキミ)に言われて、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を派遣したとあります。葛城襲津彦は三年経っても帰って来なかったそうです。

これらの「新羅が悪い」という物語を、新羅への恨みから来た創作とすることも出来ますが、そのくらいに関係が悪かった、のかもしれません。実際関係は悪かった筈です。
新羅と日本の関係
わたしは日本が朝鮮半島に進出したのは「貿易路開拓」のためだと主張しています。九州南部からの貿易路は隼人・熊襲に阻まれたから、朝鮮から中国北東部と中国との貿易を狙った。百済が中国で、新羅が中国北東部。中国との貿易は利益が莫大だった。そこで百済は日本と親密になった。しかし新羅を経由するルートは百済に比べれると収益が少なかった。いや、おそらく新羅はこの時、激烈にど田舎だったと思われます。貿易がどうとかというレベルでは無かったのではないかと。国という体裁すらまだ整っていなかった。山賊がはびこる地域だったんじゃないかと思います。それで倭軍は新羅へと出兵した。日本としては新羅を静かにさせて貿易をしたい。治安維持部隊だったのではないかと。

それで日本は新羅の治安を良くしようとテコ入れをした。新羅の初期に倭人が見られるのはそのためでしょう。それで新羅が国として育ってくると、新羅は日本を裏切り、中国の唐と結んで高句麗と百済を滅ぼし、朝鮮を統一して日本を追い出した。その発展の土台は日本のテコ入れと、中国北東部の貿易です。そして朝鮮統一後は中国とも貿易をしたのでしょう。
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原文

卌七年夏四月、百濟王、使久氐・彌州流・莫古、令朝貢。時、新羅國調使、與久氐共詣。於是、皇太后・太子譽田別尊、大歡喜之曰「先王所望國人、今來朝之。痛哉、不逮于天皇矣。」群臣皆莫不流涕。仍檢校二國之貢物、於是、新羅貢物者珍異甚多、百濟貢物者少賤不良。便問久氐等曰「百濟貢物不及新羅、奈之何。」對曰「臣等、失道至沙比新羅、則新羅人捕臣等禁囹圄、經三月而欲殺。時久氐等、向天而呪詛之、新羅人怖其呪詛而不殺、則奪我貢物因以爲己國之貢物、以新羅賤物相易爲臣國之貢物。謂臣等曰『若誤此辭者、及于還日當殺汝等。』故、久氐等恐怖從耳。是以、僅得達于天朝。」
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