継体天皇(十)妃と子息子女

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継体天皇(十)妃と子息子女

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原文

癸酉、納八妃。(納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日初拜後宮、爲文。他皆效此)。元妃、尾張連草香女曰目子媛更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣国排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣国排盾尊。次妃、三尾角折君妹曰稚子媛、生大郎皇子與出雲皇女。次、坂田大跨王女曰廣媛、生三女、長曰神前皇女、仲曰茨田皇女、少曰馬來田皇女。次、息長眞手王女曰麻績娘子、生荳角皇女荳角、此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠。次、茨田連小望女或曰妹曰關媛、生三女、長曰茨田大娘皇女、仲曰白坂活日姫皇女、少曰小野稚郎皇女更名長石姫。次、三尾君堅楲女曰倭媛、生二男二女、其一曰大娘子皇女、其二曰椀子皇子、是三国公之先也、其三曰耳皇子、其四曰赤姫皇女。次、和珥臣河內女曰荑媛、生一男二女、其一曰稚綾姫皇女、其二曰圓娘皇女、其三曰厚皇子。次、根王女曰廣媛、生二男、長曰兔皇子、是酒人公之先也、少曰中皇子、是坂田公之先也。是年也、太歲丁亥。
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現代語訳

(即位1年)3月14日。8人の妃と結納しました。
8人の妃の結納は本当は結納した日に前後があるのですが、14日に結納したということは、天皇に即位してから、良い日を占って選んで、それで初めて後宮(キサキ)を定めたことで、この文章を作ったのです。他もみな、これに倣ってください。

初めの妃は尾張連草香(オワリノムラジクサカ)の娘の目子媛(メコヒメ)といいます。
別名を色部(シコブ)といいます。

二人の子を生みました。二人ともが皆、天下を治めました。その一人が勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)といいます。これを広国排武金日尊(ヒロクニオシタケカナヒノミコト=安閑天皇)、二人目が檜隈高田皇子(ヒノクマタカタノミコ)といいます。これが武小廣国排盾尊(タケオヒロクニオシタテノミコト=宣化天皇)です。

次の妃が三尾角折君(ミオツノオリノキミ)の妹の稚子媛(ワカコヒメ)です。大郎皇子(オオイラツコノミコ)と出雲皇女(イズモノヒメミコ)を生みました。

次の妃が坂田大跨王(サカタノオオマタノオオキミ)の娘の広媛(ヒロヒメ)です。3人の女を生みました。姉が神前皇女(カムサキノヒメミコ)、仲(ナカチ=三姉妹の中)が茨田皇女(マムタノヒメミコ)、少(スナキ=三姉妹の末子)が馬来田皇女(ウマグタノヒメミコ)。

次の妃が息長真手王(オキナガノタメノオオキミ)の娘の麻績娘子(オミノイラツメ)といいます。荳角皇女(ササゲノヒメミコ)を生みました。
荳角は娑佐礙(ササゲ)と読みます。

これは伊勢大神の祠(マツリ)に仕えています。

次の妃は茨田連小望(マムタノムラジオモチ)の娘…
あるいは妹とも言われる

関媛(セキヒメ)と言います。三人の娘を生みました。長(アネ)を茨田大娘皇女(マムタノオオイラツメノヒメミコ)、仲(ナカチ)を白坂活日姫皇女(シラサカイクヒヒメノミコ)、少(スナキ)を小野稚郎皇女(オノノワカイラツメノヒメミコ)…
別名を長石姫といいます。

次の妃は、三尾君堅楲(ミオノキミカタヒ)の娘の倭媛(ヤマトヒメ)といいます。二人の男と二人の女を生みました。その一人目は大娘子皇女(オオイラツメノヒメミコ)、二人目は椀子皇子(マロコノミコ)…これは三国公(ミクニノキミ)の先祖です。その三人目が耳皇子(ミミノミコ)。その四人目が赤姫皇女(アカヒメノヒメミコ)。

次の妃は、和珥臣河内(ワニノオミカフチ)の娘の荑媛(ハエヒメ)といいます。一人の男と二人の女を生みました。その一人目が稚綾姫皇女(ワカヤヒメノミコ)。二人目が円娘皇女(ツブラノイラツメノミコ)。三人目が厚皇子(アツノミコ)。

次の妃は、根王(ネノオオキミ)の娘の広媛(ヒロヒメ)といいます。二人の男を生みました。長(コノカミ=兄)を兔皇子(ウサギノミコ)。これは酒人公(サカヒトノキミ)の祖先です。少(オトト=弟)は中皇子(ナカツミコ)といいます。これは坂田公(サカタノキミ)の祖先です。
この年は太歲丁亥でした。
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解説

継体天皇は応神天皇の5世孫ということになっています。このページに出ている倭媛との子の椀子皇子は「三国公」の祖先としています。また広媛の子の兔皇子の子孫に「酒人公」がいます。

古事記の応神天皇のところには、応神天皇の孫に「大郎子(オオイラツコ)・別名は意富々杼王(オホホドノミコ)」が登場し、この人物の子孫に「三国君」と「酒人君」が見えます。ちゃんと対応しているってことです。
なぜこんなに妃がいるのか?
妃は「即位する以前に娶った」ということなので、継体天皇は天皇に即位するまえに、これだけの妃を娶っていたということになります。ところでよく「継体天皇は無理やり立てた天皇」と言われることがあります。継体天皇がもしも都落ちした没落皇子というならば、これだけの妃を迎えるのは不可能でしょう。

継体天皇が急ごしらえの傀儡ならば、越後にいたときは「質素」に生活していないとおかしい。でも、この妃の数ではちょっと疑わしいですよね。それに、天皇に即位する直前まで「中央と切れていた」というのも何とも言えない。「越後(母親の実家)」に居たといっても、子供の頃は近江に居たのですから、中央とは完全に縁が切れていたとは何とも言えない。

その上でのこの妃の数を考えると…そもそも越後って「豊か」だったんじゃないでしょうか?? 例えば大和・出雲と東北の蝦夷を結んだ交易で勢力を強くしていた、ってことは無いんでしょうか??

わたしは大和が栄えたのは、関東と東北に「大きな文明国」があったからじゃないかと踏んでいます。そうでないと九州より大和が経済の中心になるっておかしいだろうと。それで大和が発展して関東に勢力を伸ばしていくと、今度は関東が大和の文化に近づいて魅力がなくなった。そこで越後の方が蝦夷との貿易が盛んになった。大和が継体天皇を選んだのは、越後とのパイプを期待してであって、継体天皇はそもそも勢力が強かったのではないかと思うんですよね。
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