皇極天皇(七)百済大寺と宮・蘇我大臣は蝦夷と宴会

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皇極天皇(七)百済大寺と宮・蘇我大臣は蝦夷と宴会

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現代語訳

(即位1年)9月3日。天皇は大臣(=蘇我蝦夷)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕、大寺(オオデラ)を起こし作らせようと思っている。近江(オウミ=滋賀県)と越(コシ=北越地方)の丁(ヨホロ=公的労働の人)を起こせ」
これが百済大寺です。

また諸国に課税して、船舶を作らせました。
9月19日。天皇は大臣に詔して言いました。
「この時に起こして12月からは宮室(オオミヤ=天皇の屋敷)を作ろうと思う。国々に殿屋材(トノキ=宮の木材)を山から取らせよう。東は遠江(トオツアオウミ=静岡県西部)まで、西は安芸(アギ=アキ=広島県)に限って、宮を作る丁(ヨホロ)を起こせ」
21日。越の辺境の蝦夷が数千人が、朝廷に従属しました。

冬10月8日。地震があり、雨が降りました。
10月9日。地震がありました。この夜には地震があり風が吹きました。
10月12日。蝦夷と朝廷で宴会をしました。
10月15日。蘇我大臣は蝦夷を家に迎えて、宴会を設けて、自ら慰問しました。この日に新羅の弔いの使者(=舒明天皇の弔いの使者)の船と賀騰極使(ヒツギヨロコブルツカイ=皇極天皇即位を祝う使者)の船が壱岐嶋(イキノシマ)に停泊しました。
10月24日。夜中に地震がありました。
この月(10月)に夏の令(マツリゴト)を行いました。雲が無く、雨が降りました。
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解説

皇極天皇は雨を降らせ、評価が高まった。かと思ったら、国民を使って、寺を作り始めました。その後、12月からは天皇の宮を作りました。寺が近江と越の国民を使ったのに対して、宮は静岡県から広島県の人間を使ったとなると、これは宮の方がかなり人出が多いことになります。つまり「仏<神(天皇)」という図式を天皇が示したという言い方も出来ます。

その後は越の辺境の蝦夷が朝廷にやってきたことと、地震や雨風の記事になります。

ところで蘇我蝦夷が蝦夷を歓待するって変ですよね。蘇我蝦夷って名前は、この時についた「ニックネーム」なんじゃないでしょうか。蝦夷とのつながりが強いから、とか。

蝦夷の子は入鹿(イルカ)です。名前が海のイルカと同じ音なんで、そこに注目しがちですが、「鹿に入る」というのはもしかして、異民族蝦夷とのつながりを示しているのではないかと。

蝦夷と朝廷の関係はヤマトタケルの時代にも見られます。ヤマトタケルが東北に遠征し、蝦夷を捕虜として連れ帰ります。その捕虜がその後、各地域の「佐伯氏」となっていきます。佐伯と「鹿」の関係は、日本書紀で度々語られていて、「鹿」は蝦夷の象徴だったんじゃないかと思うのですね。鹿を神の使いと考える日本人は鹿を殺せない。蝦夷は肉を食べる民族ですから、鹿を殺す。ただ、それだけなら蝦夷は穢らわしい存在なだけなんですが、鹿や猪といった山に住む哺乳類は農業にとっては「害獣」でもあります。神の使いだけど、駆除しないといけない。そこで「佐伯」が必要だったんじゃないかと。だから佐伯は珍重され、地域で頼りにされた。
だから蝦夷という言葉や、鹿という言葉には、一種の侮蔑のニュアンスもあるのだけど、畏怖し頼る意味もあった。大臣にこれらの名前が付いているのは、親につけられたのではなく、その後の地位とイメージに相応しい「ニックネーム」なんじゃないかなぁと思うのです。
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原文

九月癸丑朔乙卯、天皇詔大臣曰、朕思欲起造大寺。宜發近江與越之丁。百濟大寺。復課諸国、使造船舶。辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於国国取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁。癸酉、越邊蝦夷、數千內附。冬十月癸未朔庚寅、地震而雨。辛卯、地震。是夜、地震而風。甲午、饗蝦夷於朝。丁酉、蘇我大臣、設蝦夷於家、而躬慰問。是日、新羅弔使船與賀騰極使船、泊于壹岐嶋。丙午夜中、地震。是月、行夏令。無雲而雨。
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