斉明天皇(六)有間皇子は牟婁温湯へ・新羅は大唐へ使者を送るのを断る

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斉明天皇(六)有間皇子は牟婁温湯へ・新羅は大唐へ使者を送るのを断る

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原文

九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往牟婁温湯、偽療病來、讚国體勢曰、纔觀彼地、病自蠲消、云々。天皇、聞悅、思欲往觀。是歲、使々於新羅曰「欲將沙門智達・間人連御廐・依網連稚子等、付汝国使令送到大唐。」新羅、不肯聽送。由是、沙門智達等還歸。西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(傴僂、此云倶豆磨)、自百濟還、獻駱駝一箇・驢二箇。石見国言、白狐見。

現代語訳

(即位3年)9月。有間皇子(アリマノミコ=孝徳天皇の皇子)は人間性が聡く、陽狂(ウオリクルイ=狂人のフリをすること)していました。云々。

牟婁温湯(ムロノユ=和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行き、病を治療する真似をして、帰って来て、国の体勢(ナリ=様子=ここでは牟婁温湯の周辺の様子のこと)を賛辞して言いました。
「わずかながらでも、その土地を見ると自然と病気が消えて無くなった」
と云々。
天皇はそれを聞いて喜び、行って見てみたいと思いました。

この年、使者を新羅に派遣して言いました。
「沙門智達(ホウシチダチ)・間人連御廐(ハシヒトノムラジミウマヤ)・依網連稚子(ヨサミノムラジワクゴ)たちを率いて、お前たちの国の使者につけて、大唐(モロコシ=中国の唐)に送り、到着させたいと思う」
新羅は聞き入れず、送りませんでした。それで沙門智達(ホウシチダチ)たちは帰って来ました。西海(ニシノミチ)の使者の小花下(ショウカゲ)の阿曇連頰垂(アズミノムラジツラタリ)・小山下(ショウセンゲ)の津臣傴僂(ツノオミクツマ)…
傴僂は倶豆磨(クツマ)と言います。

百済から帰って、駱駝(ラクダ)を1箇・驢(ウサギウマ=ロバ)を2箇を献上しました。石見国(イワミノクニ)は言いました。
「白狐を見ました」
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解説

有間皇子は孝徳天皇の皇子。

有間皇子は舒明天皇12年(640年)に生まれていて斉明天皇が即位した655年には15歳。斉明天皇(=皇極天皇)はこの時には61歳かそのくらいで古代ではかなりの高齢。斉明天皇はいつ死んでもおかしくない。斉明天皇が死ねば、前の孝徳天皇の子供である有間皇子は有力な時期天皇候補となります。

そして、同じく次期天皇の有力候補であり、実権があったと思われる中大兄皇子(=天智天皇)ですが、蘇我入鹿・蝦夷の殺害や、強引に遷都し孝徳天皇を置き去りにしたりと、無茶苦茶なやり口ですから、周囲の評判が悪かったんじゃないかと思うのです。また、中大兄皇子の母である斉明天皇は、土木工事を頻繁に行ったことから批判されていました。実権を握っていたとされる中大兄皇子はこれを止めなかったのですから、外部から見れば同罪。評判の悪いが実験のある中大兄皇子にしてみれば、「聡い」と評判の人物は邪魔です。

強大な権力を持った中大兄皇子と斉明天皇に対して有間皇子はまだ若く、後ろ盾もない。真正面から戦うわけには行きません。狂人のフリをしていたとしても仕方がありません。

それで、「この温泉は見るだけも癒されるわ〜」と言ったら、斉明天皇が「へぇ!」と実際にこの後、温泉に行くことになります。
新羅と百済
新羅は日本が中国と関係を持つことを嫌った、のかもしれません。
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