相夢で皇太子を判断する

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崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀)

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原文

卌八年春正月己卯朔戊子、天皇勅豊城命・活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。會明、兄豊城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八

現代語訳

崇神天皇即位48年春1月10日。天皇は豊城命(トヨキノミコト)・活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前たち二人の皇子はどちらも同じくらいに愛している。
しかし、どちらかを嗣(ヒツギ=後継者=皇太子)にしなくてはいけない。
それぞれが夢を見なさい。
わたしは夢で占おう」

二人の皇子は天皇の命を受けて、淨沐(ユカハアミユスルアミ=河で体を洗い、髪を洗う)をして祈祷して眠りました。それぞれが夢を見ました。

夜が明けて、兄の豊城命(トヨキノミコト)は天皇に報告しました。
「わたしは御諸山(ミモロヤマ=奈良県桜井市三輪山)に登って東に向き、8回弄槍(ホコユケ=槍を突き出す)して8回擊刀(タチカキ=刀を振る)しました」

弟の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)は夢の言葉を報告しました。
「わたしは御諸山の嶺(タケ)に登って、縄を四方に張って、粟(アワ)を食べる雀を追い払いました」
天皇は相夢(ユメノミアワセ)をして、二人の皇子に言いました。
「兄はただ東に向いていた。東の国だけを治めようとしている。
弟は四方を見ていた。皇位に付け」

4月19日。活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)を皇太子にしました。豊城命(トヨキノミコト)は東の国を治めました。豊城命(トヨキノミコト)は上毛野君(カミツケノノキミ)・下毛野君(シモツケノノキミ)の始祖となりました。
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解説

古事記には無い物語
見た夢で判断するなんて、無茶な。しかし、夢には個人の無意識が出て来るので、もしかしたら意外と客観的なのかもしれない。

この物語をどう捉えるのかは微妙。
東に向いて武力を提示する兄と、粟を食べる雀を払う弟。武と農業は古代に置いてどちらも欠けるわけにはいかない大事なものです。私たちは後世において「天皇」が権力を持つと知っているので、弟が「得」したな、と感想を持ちますが、はたして当時、そういった感覚があったかというと疑問。実際、兄は非常に多くの氏族の始祖なのですから、かなり優遇もされたのです。

それに大和朝廷が国内を統一するのはかなり先。ヤマトタケルの時代でも統一にはほど遠い。大和朝廷にとって「東国征伐」はずっとテーマだったはずなんです。兄の役割はむしろ大きかったのでしょう。

個人的コラム

言い訳じゃないか?
これまで全て、ではないですが天皇の後継者は「末子」でした。これは海洋民族によく見られるシステムです。海洋民族では子供は一人前になったら、どんどんと舟を持って家を出て行くのです。だから「家」を継ぐのは最後に残った「末子」なんです。

ところが崇神天皇の時代にはどうやら儒教が入って来ている。儒教は長子相続です。親から家督を長子が引き継ぎ、更に長子の子が引き継ぎます。現代の日本の考えはこの儒教式だから、末子相続の方が不思議に思っちゃいますが。

ようはこの時代に「末子相続→長子相続」という「価値観の変化」があったのです。多分。ところが天皇は古来の価値観とシステムによってその存在意義が支えられているものですから、そう簡単に、政治システムを儒教から吸収したからといって、そこまでは変えられない。変えられなかった。そこで、「末子が相続した理由」を残した。それがこの物語だったのでしょう。

もしくは天皇家にはこの時点になっても、「長子は家を出る」という風習が残っていたのかもしれません。皆、倭からサッサと出て行った。それで末子が残った。だから末子が天皇になってきた。ところが、天皇家はもう海洋民族ではなく農耕民族です。すると家を出るのはただ辛いだけ。残って親から受け継いだ土地を耕し、農業をやった方が安定した生活が出来る。そこで権力争いが激しくなった??のかもしれません。
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