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景行天皇(十五)日向の地名説話と思邦歌
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十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是国也直向於日出方。」故號其国曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、
是謂思邦歌也。
波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固
是謂思邦歌也。
現代語訳
即位17年の春3月12日。
子湯県(コユノアガタ=現在の宮崎県児湯郡・西都市)に行き、丹裳小野(ニモノオノ=地名だが未詳)で遊びました。そのときに東を望んで、左右(モトコノヒト=側にお付きの人)に言いました。
「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」
それでその国を日向(ヒムカ)といいます。この日に野中(ノナカ=野っ原の)の大石(オオカシワ)に登って京都(ミヤコ=大和の首都のことで現在の京都ではない)を偲んで、歌を歌いました。
この歌を思邦歌(クニシノビウタ)といいます。
参考平群の山のくま白梼
子湯県(コユノアガタ=現在の宮崎県児湯郡・西都市)に行き、丹裳小野(ニモノオノ=地名だが未詳)で遊びました。そのときに東を望んで、左右(モトコノヒト=側にお付きの人)に言いました。
「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」
それでその国を日向(ヒムカ)といいます。この日に野中(ノナカ=野っ原の)の大石(オオカシワ)に登って京都(ミヤコ=大和の首都のことで現在の京都ではない)を偲んで、歌を歌いました。
愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立来も
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣
山籠れる 倭し麗し
命の全けむ人は 畳薦(タタミコモ) 平群の山の
白樫が枝を 髻華(ウズ)に挿せ この子
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣
山籠れる 倭し麗し
命の全けむ人は 畳薦(タタミコモ) 平群の山の
白樫が枝を 髻華(ウズ)に挿せ この子
歌の訳
愛しい我が家の方から、雲が立ちのぼってくるよ。
倭は国の素晴らしく住みやすい所だ。
連なり重なる山が青垣のように囲まれて、山に篭ってるみたいな大和は美しいよなぁ。
命が完全なものよ…たたみこむ(連なり籠る…前の歌と掛かってる)平群の山の白樫の枝をかんざしとして頭にさせよ、この子よ
愛しい我が家の方から、雲が立ちのぼってくるよ。
倭は国の素晴らしく住みやすい所だ。
連なり重なる山が青垣のように囲まれて、山に篭ってるみたいな大和は美しいよなぁ。
命が完全なものよ…たたみこむ(連なり籠る…前の歌と掛かってる)平群の山の白樫の枝をかんざしとして頭にさせよ、この子よ
この歌を思邦歌(クニシノビウタ)といいます。
参考平群の山のくま白梼
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解説
日向地名説話
太陽に向いているから、日向。という話は、一見すると納得できるようで、全然納得できないのではないかと思うのです。というのも、「いや、太陽に向いている向いてないは、見る人のさじ加減じゃない?」ってことだからです。お前が東を向けば、太陽に向くってだけでしょ? と言われると、まぁそうなんですが、ちょっと違います。
当時の「国」というのは山があって、川があって、その川から水を引いて水耕稲作をやっていたわけですから、「山→川→田→海」というのが国の方向になります。ハッキリとそう書いてあるわけじゃないですが、自然とそうなります。
歌に見える世界観
日本人は「山」が大事だと考えていました。まず山に雨が降って、その水が山の豊かな水流となります。これは日本の山が異常なほどに緑が多いためです。山に植物が多いからたくさんの水が蓄えられ、それが年間を通して一定した「川」となって流れます。だから水を大量に必要な「水耕稲作」が成立するわけです。
だから山に囲まれていることは豊かな国として必須でした。景行天皇が「山に篭ってるみたいに囲まれてる」と言うのは、いわば自慢です。「俺っちの国ってば山に囲まれてるんだぜ、エヘン」てなもんです。
山も大事ですが、日本人は「種子」を大事に思っていました。種子は一粒で秋には何十倍にも増えます。種子にはすごいエネルギーがこもっていると日本人は考えていました。その種子の象徴が「子供」です。子供は未発達な存在でも不確実な未来の可能性でもなく、大人が失ってしまった無限のエネルギーを持った特別な存在でした。
景行天皇の歌の「完全な命を持つもの」というのはおそらく、というか、間違いなく「子供」のことを指します。子供の髪に白樫の枝のかんざしを挿して讃えているのです。それだけ日本人にとって「子供」は特別に愛すべき存在なんです。だから、最後に「この子」と付くんです。
古事記では歌はヤマトタケルが
古事記ではヤマトタケルが死にそうになったときに、故郷を思って歌った歌が「思邦歌(クニシノビウタ)」です。なぜ父、景行天皇の歌とその子のヤマトタケルの歌がゴチャゴチャになっているんでしょうかね。
参考:平群の山のくま白梼
太陽に向いているから、日向。という話は、一見すると納得できるようで、全然納得できないのではないかと思うのです。というのも、「いや、太陽に向いている向いてないは、見る人のさじ加減じゃない?」ってことだからです。お前が東を向けば、太陽に向くってだけでしょ? と言われると、まぁそうなんですが、ちょっと違います。
当時の「国」というのは山があって、川があって、その川から水を引いて水耕稲作をやっていたわけですから、「山→川→田→海」というのが国の方向になります。ハッキリとそう書いてあるわけじゃないですが、自然とそうなります。
歌に見える世界観
日本人は「山」が大事だと考えていました。まず山に雨が降って、その水が山の豊かな水流となります。これは日本の山が異常なほどに緑が多いためです。山に植物が多いからたくさんの水が蓄えられ、それが年間を通して一定した「川」となって流れます。だから水を大量に必要な「水耕稲作」が成立するわけです。
だから山に囲まれていることは豊かな国として必須でした。景行天皇が「山に篭ってるみたいに囲まれてる」と言うのは、いわば自慢です。「俺っちの国ってば山に囲まれてるんだぜ、エヘン」てなもんです。
山も大事ですが、日本人は「種子」を大事に思っていました。種子は一粒で秋には何十倍にも増えます。種子にはすごいエネルギーがこもっていると日本人は考えていました。その種子の象徴が「子供」です。子供は未発達な存在でも不確実な未来の可能性でもなく、大人が失ってしまった無限のエネルギーを持った特別な存在でした。
景行天皇の歌の「完全な命を持つもの」というのはおそらく、というか、間違いなく「子供」のことを指します。子供の髪に白樫の枝のかんざしを挿して讃えているのです。それだけ日本人にとって「子供」は特別に愛すべき存在なんです。だから、最後に「この子」と付くんです。
古事記では歌はヤマトタケルが
古事記ではヤマトタケルが死にそうになったときに、故郷を思って歌った歌が「思邦歌(クニシノビウタ)」です。なぜ父、景行天皇の歌とその子のヤマトタケルの歌がゴチャゴチャになっているんでしょうかね。
参考:平群の山のくま白梼
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