阿直伎と王仁

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応神天皇(十一)阿直伎と王仁

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原文

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

現代語訳

即位15年秋8月6日。百済王は阿直伎(アチキ)を派遣して、良馬2匹を献上しました。すぐに軽(カル=奈良県橿原市大軽)の坂の上の厩(ウマヤ)で飼いました。それで阿直伎(アチキ)を馬飼いの担当としました。その馬を飼っていた所を名付けて厩坂(ウマヤサカ)といいます。阿直伎(アチキ)は経典が読めました。それで太子の菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の師(ミフミヨミ)としました。天皇が阿直伎(アチキ)に問いました。
「お前よりも勝る博士(フミヨミヒト=文を読む人)がいるか?」
答えました。
「王仁(ワニ)という人がいます。優れています」
それで上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の荒田別(アラタワケ)・巫別(カムナキワケ)を百済に派遣して王仁を呼び寄せました。阿直伎(アチキ)は阿直岐史(アチキノフビト)の始祖です。
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解説

百済からやってきた阿直岐は馬を連れてきたものだから、そのまま馬飼いの仕事に就かされ、皇子の家庭教師にさせられました。それで、「もっと勉強のできるやつ、いないか?」と聞かれて「王仁ってのがいますよー」と提案するとそのまま王仁が連れてこられて、次の家庭教師となったと。

それで阿直岐は阿直岐史という氏族の始祖となります。ちなみに王仁も書首(フミノオビト)という文書関係の氏族の始祖となっています。二人とも日本で子孫を残しているんですね。

ここでの王仁(ワニ)は古事記にもあります。古事記では「論語」と「千文字」という漢字の教書本を伝えたとあるのですが、この時代にはまだ「千文字」は成立しておらず、そういうことから王仁は実在しない人物ではないか?と疑われています。朝鮮から来た渡来人の功績をまとめた「武内宿禰」のような人物ではないか?という意見もあります。

ちなみに朝鮮の歴史書「三国史記」「三国遺事」には王仁っぽい人物は描かれていません。ということで、限りなく創作くさい人物です。ところが韓国では「バリバリ実在している」「していて当然」という設定になっています。なにせ「日本に漢字を伝えた」ということで優越感に浸れるからです。
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