根使主は押木珠縵に目が眩む。大草香皇子の死

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安康天皇(四)根使主は押木珠縵に目が眩む。大草香皇子の死

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原文

元年春二月戊辰朔、天皇、爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女、則遣坂本臣祖根使主、請於大草香皇子曰「願得幡梭皇女、以欲配大泊瀬皇子。」爰大草香皇子對言「僕頃患重病、不得愈、譬如物積船以待潮者。然死之命也、何足惜乎。但以妹幡梭皇女之孤、而不能易死耳。今陛下、不嫌其醜、將滿荇菜之數、是甚之大恩也、何辭命辱。故欲呈丹心、捧私寶名押木珠縵、一云、立縵。又云、磐木縵。附所使臣根使主而敢奉獻、願物雖輕賤納爲信契。」

於是、根使主、見押木珠縵、感其麗美、以爲盜爲己寶、則詐之奏天皇曰「大草香皇子者不奉命、乃謂臣曰『其雖同族、豈以吾妹、得爲妻耶。』」既而、留縵入己而不獻。於是、天皇信根使主之讒言、則大怒之、起兵、圍大草香皇子之家而殺之。

是時、難波吉師日香蛟、父子並仕于大草香皇子、共傷其君无罪而死之、則父抱王頸、二子各執王足而唱曰「吾君、无罪以死之、悲乎。我父子三人生事之、死不殉是不臣矣。」卽自刎之、死於皇尸側、軍衆悉流涕。爰取大草香皇子之妻中蒂姫納于宮中因爲妃、復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子。是年也、太歲甲午。
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現代語訳

即位1年春2月1日。安康天皇は大泊瀬皇子(オオハツセノミコ=雄略天皇)のために大草香皇子(オオクサカノミコ)の妹の幡梭皇女(ハタビノヒメミコ)を妻にしようと思いました。坂本臣(サカモトノオミ)の祖先の根使主(ネノオミ)を派遣して大草香皇子(オオクサカノミコ)に請うて言いました。
「願わくば、幡梭皇女(ハタビノヒメミコ)を大泊瀬皇子と結婚させたい」
大草香皇子は答えて言いました。
「この頃、重い病気が癒えないでいます。例えるならば品物を船に積んで潮を待つもののようです。しかし死んでしまうのも命というものです。どうして命が惜しいものでしょうか。ただ、妹の幡梭皇女(ハタビノヒメミコ)が孤(ミナシゴ=身寄りの無い人)となってしまうとなると、安らかに死ねません。今、陛下がその醜い姿を嫌わず、荇菜(オニナメ=水草のアサザのことで宮廷で働く女性を水草に例えている)の数に加えてくだっさい。これはとても有り難いことです。どうして命令を拒否できましょうか。その丹心(マコトノココロ)の表れとして私の宝である押木珠縵(オシキノタマカズラ)を捧げましょう。
ある伝によると立縵(タチカズラ)といいます。
また別の伝によると磐木縵(イワキノカズラ)といいます。

使者の根使主(ネノオミ)に渡して、献上しましょう。願わくば、品物が軽くて卑しいといっても、納めていただいて、印としていただきたい」
根使主はその押木珠縵(オシキノタマカズラ)を見て、その美麗さに感動して思いました。盗んで自分の宝としたい、と。それで偽って天皇に言いました。
「大草香皇子は命令を受けず、わたしめにこう言ったのです。
『天皇が同じ族といっても、どうして私の妹を妻とすることが出来るというのか』
と」
根使主は押木珠縵を自分のものにしてしまい献上しませんでした。天皇は根使主の嘘を信じました。天皇はとても怒り、兵を起こして大草香皇子の家を囲んで殺しました。
この時、難波吉師日香蛟(ナニワノキシヒカカ)の父と子は大草香皇子に仕えていました。その君が無罪なのに死んでしまうことに心を痛めて、父は王(=大草香皇子)の首を抱き、二人の子はそれぞれ王(=大草香皇子)の足を持ち、唱えて言いました。
「我が君!
罪も無く死んでしまうこと!
なんと悲しいことか!
我々、父子三人は生きていたときに仕えだのならば、死んで殉死しないなど臣下とは言えないだろう!」
すぐに自ら首を刎ねて、皇子の遺体のそばで死んでしまいました。軍衆(イクサ=兵士たち)は涙を流して悲しみました。天皇は大草香皇子の妻の中蒂姫(ナカシヒメ)を捕えて、後宮に入れました。そして妃としました。また、幡梭皇女を呼び寄せて、大泊瀬皇子に会わせました。この年、太歲甲午です。
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解説

幡梭皇女
幡梭皇女を「暴力的で嫁のいない」大泊瀬皇子と結婚させようとしましたが、幡梭皇女の兄である大草香皇子は「いいよー」と言ったのに結納品に目が眩んだ使者の根使主に嘘の報告をされて誤解から大草香皇子を殺害してしまうという悲劇。この悲劇はその後、大草香皇子の子の眉輪王(マヨワノキミ)による安康天皇殺害というさらなる悲劇を生みます。
押木珠縵(オシキノタマカズラ)
どうやら木の枝の形をしたアクセサリー。金属でできた冠ではないかと思われます。
事件の真相
大草香皇子の母親は「日向髪長媛」で父親は仁徳天皇。仁徳天皇の皇后は葛城氏出身の「磐之媛」。つまり大草香皇子は筋から言えば、履中・反正・允恭の次に天皇になっていても何らおかしくない「皇子」なわけです。なぜ大草香皇子は天皇になれなかったのかというと、葛城氏の血を継いでいないからです。

当時は葛城氏の勢力が強かった。しかしその専横がひどかったのでしょう。反対勢力もあった。その反対勢力を削ぐために、允恭天皇の時代には弱小氏族を間引くという乱暴な方法も取りました。

しかしそれが余計に反感を招いたのかもしれませんし、単に葛城が対抗勢力への手を緩めなかっただけかもしれません。安康天皇は即位したとはいえ、政治基盤が脆弱で、安康天皇の即位を批判する氏族も多かったのかもしれません。そこで葛城氏は反対力の象徴である大草香皇子を粛清した。その際に死んだのが「難波吉師日香蛟(ナニワノキシヒカカ)の父子三人」。おそらく反対勢力の筆頭だったのではないかと。
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