雄略天皇(十一)吉野宮の御馬瀬の猟での御者大津馬飼の殺害

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雄略天皇(十一)吉野宮の御馬瀬の猟での御者大津馬飼の殺害

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原文

冬十月辛未朔癸酉、幸于吉野宮。丙子、幸御馬瀬、命虞人縱獵、凌重巘赴長莽、未及移影、獮什七八、毎獵大獲、鳥獸將盡、遂旋憩乎林泉、相羊乎藪澤、息行夫展車馬、問群臣曰「獵場之樂、使膳夫割鮮。何與自割。」群臣忽莫能對、於是天皇大怒、拔刀斬御者大津馬飼。是日車駕至自吉野宮、国內居民咸皆振怖。

現代語訳

(即位2年)冬10月3日。吉野宮(ヨシノノミヤ)に雄略天皇は行きました。6日に御馬瀬(ミマセ)に行きました。虞人(ヤマノツカサ=山を管理する役人)に命じて、好きなように猟(カリ)をしました。重なる峰に登り、広い原をいくと、まだ日が傾かないうちに十と七つか八つほど獲りました。猟りをするごとに大きな獲物を得ました。鳥・獣(シシ)は尽きました。そうして巡って林息(シマ=休憩所)で休みました。薮沢(ヤブサワ)にゆっくりとして、行夫(カリビト=狩りに同行した人)を休憩させて車馬(ミクルマ=馬車)を並べました。群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)に天皇は問いました。
「猟場の楽しみには膳夫(カシワデ=料理人)に鮮(ナマス)を作らせることだが、自分で作るのとどちらが楽しいだろうか?」
群臣は答えられませんでした。それで天皇はとても怒って、刀を抜いて御者大津馬飼(オオウマソイノヒトオオツノウマカイ)を斬り殺しました。この日に車駕(スメラミコト=天皇の乗った馬車)は吉野宮から帰りました。国内に住む民はみな恐れて震えました。
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解説

雄略天皇の行動について
わたしはどうも天皇が狩りをするのは「儀式」ではないかと思っているんですね。趣味ではなくて。天皇が山に登り、そこで国見をするように、農業の宗教儀式の一つとして「猟り」があったのだろうと。

日本人は山に穀物神がいて、その神が里に下りて田畑に宿って穀物を育てると考えていました。天皇が国見をするのは、天皇を依代として穀物神を里に下ろすための儀式でしょう。でも、この考えは時代とともに変化していったんじゃないかと思うんですね。というのも、古事記や日本書紀を見ると、ベースは「山から穀物神が里に降りる」なのですが、「どうやって里に降りるか?」という部分が変遷しているんですよ。

雄略天皇の場合は葛城の一言主が有名でしょう。あれを「葛城の氏族との関係」と見ることもできます。そういう意味もあるのでしょうが、根本は農業の宗教儀式でしょう。葛城山に登って、そこで神と同化して里に下りるという儀式があの「一言主」の説話なんですよ。ただ、どうして葛城の一言主が取り上げられたか?というとそれは葛城氏が権力を持っていたから、ってことでしょう。だから「葛城氏の関係」というのも間違ってないのです。

山の動物は神の使いであり、これを殺すと祟りというか、「穢れ」が発生して、それに犯されると場合によっては死んでしまうと日本人は考えていました。ただ、山の動物は同時に穀物神の依代でもあったのです。だから天皇の「猟り」には、そういう意味があった。動物を里へと連れていくことで、穀物神を里に下ろして豊穣を願った。だけど雄略天皇は違った。

日本は動物を食べなかった。神の使いだからです。また天皇は清らかでないといけない。清らかであることが天皇の条件。しかし蝦夷といった異民族は肉を食した。その影響があった。それで雄略天皇は肉を食べようとしたし、食べるべきだと考えたのではないかと。明治維新のときに国民が体力をつけるためには肉食をするべきと明治天皇が肉食をしたように。
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