丹波小子と名を変え縮見屯倉首に仕える

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顕宗天皇(二)丹波小子と名を変え縮見屯倉首に仕える

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原文

穴穗天皇三年十月、天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子、於蚊屋野、爲大泊瀬天皇見殺、因埋同穴。於是、天皇與億計王、聞父見射、恐懼皆逃亡自匿。帳內日下部連使主(使主、日下部連之名也。使主、此云於瀰)與吾田吾田彦、使主之子也、竊奉天皇與億計王、避難於丹波国余社郡。使主、遂改名字曰田疾來、尚恐見誅、從茲遁入播磨縮見山石室而自經死。天皇、尚不識使主所之、勸兄億計王、向播磨国赤石郡、倶改字曰丹波小子、就仕於縮見屯倉首。(縮見屯倉首、忍海部造細目也。)吾田彦、至此不離、固執臣禮。
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現代語訳

穴穂天皇(=安康天皇)即位3年10月。顕宗天皇の父の市辺押磐皇子と帳内(トネリ)の佐伯部仲子(サエキベノナカチコ)は蚊屋野(カヤノ)で大泊瀬天皇(=雄略天皇)に殺されました。それで同じ穴に埋められました。顕宗天皇と億計王(オケノキミ=仁賢天皇)は父が射殺されたと聞いて、恐れ怖じ気づいて、皆、逃亡して匿(カク)れました。帳内(トネリ)の日下部連使主(クサカベノオミ)と吾田彦(アタヒコ)…
使主(オミ)は日下部連の名前です。使主は於瀰(オミ)と読みます。吾田彦は使主の子供です。

は密かに顕宗天皇と億計王(=仁賢天皇)を奉じて、難(ワザワイ=雄略天皇に殺される危険)を避けて、丹波国の余社郡(ヨザノコオリ=後の丹後国与謝郡)へと行きました。使主は遂には苗字を改めて、田疾来(タトク)としました。尚、誅殺されることを恐れて、ここから播磨の縮見山(シジミノヤマ)の石室(イワヤ)に隠遁して入って、首をくくって死にました。天皇は使主の居場所を分かっていませんでした。兄の億計王と播磨国の赤石郡(アカシノコオリ)に向かい、ふたりともに字(ミナ=名前)を改めて、丹波小子(タニワノワラワ)というようになりました。縮見屯倉首(シジミノミヤケノオビト)に仕えていました。
縮見屯倉首は忍海部造細目(オシヌミベノミヤツコホソメ)です。

吾田彦はここまで離れることもなく、かたくなに従い、臣としての礼を尽くしました。
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解説

安康天皇の時代に市辺押磐皇子は雄略天皇に殺されました。市辺押磐皇子の子供達である顕宗天皇と仁賢天皇は、このままでは殺されると判断して、播磨へと流れ逃げたというわけです。
日下部連使主
古事記の開化天皇のところに
日子坐王の子孫
次に沙本毘古王(サホビコノミコ)は、日下部連(クサカベノムラジ)・甲斐国造(カヒノクニノミヤツコ)の祖(ヤ)なり。

とあります。その日下部連の祖先の沙本毘古王(サホビコノミコ)は妹の沙本毘売命と愛し合い、垂仁天皇を暗殺しようとした人物で、誅殺されたはずなんですよね。それでも子孫がいるって変。まぁ、愛した人が妹だけとは限らないのでなんとも言えませんけど。

この日下部という名前は仁徳天皇の息子の一人の「大日下王(古事記)」=「大草香皇子(日本書紀)」ともつながりがあると思われます。この大草香皇子の名を冠した集団が「大日下部」と。「大日下部」と「日下部」は別だとしても何か関わりがあったと考えるべきでしょうね。それは何か?

大草香皇子の母親は日向出身の髪長毘売です。「クサカ」という言葉はこの日向あたりを象徴する言葉ではないかと。ということは沙本毘古王も日向の関係者と考えるべきではないか?と思うのです。出身が日向かどうかではなく、何か関わりがあった。だから子孫に「日下部」という名前が残った。
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