舒明天皇(一)出自について

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舒明天皇(一)出自について

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原文

息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。豊御食炊屋姫天皇廿九年、皇太子豊聰耳尊薨而未立皇太子、以卅六年三月天皇崩。

現代語訳

息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト=舒明天皇)は渟中倉太珠敷天皇(ヌナクラノフトタマシキノスメラミコト=敏達天皇)の孫で、彦人大兄皇子(ヒコヒトオオエノミコ)の子です。母は糠手姫皇女(アラテノヒメノミコ)といいます。豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト)の即位29年。皇太子の豊聡耳尊(トヨトミミノミコト=聖徳太子)が亡くなりました。しかし、未だに皇太子を立てていませんでした。即位36年の3月に推古天皇は崩御しました。
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解説

彦人大兄皇子
彦人大兄皇子は舒明天皇(=田村皇子)の父親で、敏達天皇の子。バリバリの皇族です。舒明天皇の母であり、彦人大兄皇子の妻の糠手姫皇女も当然ながら、皇女でバリバリの皇族。

彦人大兄皇子は敏達天皇の「第一皇子」だったので本来は、推古天皇ではなく彦人大兄皇子が天皇になってもおかしくありませんでした。それがその後、日本書紀にほとんど記述がないところから、蘇我氏に暗殺されたとも言われました。

ところがここに至って、田村皇子こと舒明天皇の成立です。田村皇子は妻こそ蘇我氏ですが、血統はバリバリの皇族。仏教推進派の蘇我氏としては田村皇子よりも、聖徳太子の子の山背大兄皇子の方が筋が通っていると思うのですが。

この辺りは、推古天皇の死の前後にたくさんの天変地異があり、飢餓が起きている原因が「仏教」ではないか?と大和朝廷の氏族たちが考えていたのではないかと思っています。仏教を信仰するから飢餓が起きている。仏教は信仰するべきではない。仏教は間違っていた。だから仏教を推進した聖徳太子ではなく、バリバリの皇族の田村皇子・・・舒明天皇が生まれた・・・のではないかと。
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