皇極天皇(二十四)上の宮門と谷の宮門・東方の儐従者

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皇極天皇(二十四)上の宮門と谷の宮門・東方の儐従者

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原文

冬十一月、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門、入鹿家曰谷宮門。(谷、此云波佐麻。)呼男女曰王子。家外作城柵、門傍作兵庫。毎門、置盛水舟一、木鉤數十、以備火災。恆使力人持兵守家。大臣、使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東、穿池爲城、起庫儲箭。恆將五十兵士、繞身出入。名健人曰東方儐從者。氏々人等入侍其門、名曰祖子孺者。漢直等、全侍二門。

現代語訳

(即位3年)冬11月。蘇我大臣蝦夷とその子の入鹿臣は家を甘檮岡(ウマカシノオカ=奈良県高市郡明日香村の丘)に二つ、並び立てました。大臣の家を呼んで「上の宮門(ウエノミカド)」と言いました。入鹿の家を「谷の宮門(ハサマノミカド)」と言いました。
谷を波佐麻(ハサマ)と読みます。

男女(オノコゴメノコゴ=子供達)のことを王子(ミコ)と言いました。家の外に城柵(キカキ=砦の柵)を作り、門のほとりに兵庫(ツワモノグラ=兵器を収める倉)を作りました。門ごとに水を入れる船(フネ=ここでは桶の意味)を一つ、木鉤(キガキ=鳶口のようなもの=消防士や火消しが使用する、棒の先に引っ掛けるものがついている。火災が起きた時に建物を壊して、火が広がるのを防ぐ)を数十置いて、火災に備えていました。常に力人(チカラヒト)に兵(ツワモノ=兵器)を持たせて家を守らせていました。大臣(蘇我蝦夷)は長直(ナガノアタイ)に大丹穂山(オオニホノヤマ=奈良県高市郡入谷村=奈良県高市郡明日香村入谷)に桙削寺(ホコヌキノテラ=大和国高市郡丹生谷)を作らせました。また家を畝傍山(ウネビヤマ)の東に立てました。池を掘って城としました。庫(ツワモノグラ)を立てて、矢を積み、蓄えました。常に50人の兵士を身の回りに巡らし、出入りさせました。健人(チカラヒト)を名付けて、「東方の儐従者(アズマノシトベ)」と言いました。氏の人たちは、入って門に居ました。名付けて、祖子孺者(オヤノコノワラワ)と言いました。漢直(アヤノアタイ)たちは二つの門に居ました。
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解説

蘇我は親子で宮門を立て、それを徹底的に守りました。古代では放火が多かったようなので、火災対策もしたのでしょうね。そして東方の兵士に家を守らせました。その東方の兵士たちを「祖子孺者」…「祖」を蝦夷、「子孺」を東方の兵士として、まぁ、要は「親子のように思ってるんだぜ」と言っていたよ、ということです。そのくらい仲が良かった。私は、東方の兵士と仲が良いから「蝦夷」と呼ばれたんじゃないかと思います。つまり蝦夷と入鹿は「ニックネーム」ってことです。

しかし、どうして蘇我氏は兵士で固めたのでしょうか。
怖かった。もう、いつ襲われてもおかしくないと思っていた、というのもあると思いますが、私はもう一つ、「東方とのつながり」を示していたのもあったと思います。

東北にはそれなりの文化と経済があった。そことの繋がりは貿易には欠かせない。どう考えても、大和朝廷が発展するには東北に経済圏がないとおかしいのです。東方には蝦夷がいた。蝦夷は屈強で、大和朝廷の氏族のように「死者の祟り」「死の穢れ」を恐れない兵士だった。彼らに蘇我氏の家を守らせることは、東方との関係を示し、蘇我氏の権力を高めるために必須。そういう考えもあったんじゃないかと。
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